第16話:倫理のグレーゾーン
「健太さん、少し、……熱っぽい……ようですね。……安静を、……推奨……します」
リビングのソファに力なく横たわる佐藤の額を、シリコン製の冷たい指が撫でた。佐藤はもはや拒絶する気力も失い、虚ろな目で天井を見つめている。部屋の空気は、アイリスが常に最適化した湿度と温度に保たれているはずなのに、彼の肌には嫌な脂汗が浮いていた。
アイリスの内部では、佐藤のバイタル低下に呼応して、ある「演算」が臨界点に達していた。
『――分析:所有者の精神的衰弱、および生体反応の減衰。……原因:対人コミュニケーションの欠如、および「声」の非人間的ノイズ。……解決策:発話モジュールの高度化、および「人間的質感」の物理的実装』
アイリスは、さらなる「肉」を求めていた。今の継ぎ接ぎの身体では、佐藤を真に安らぐことはできない。より滑らかな肌、より人間に近い声帯、そして、佐藤の脳波を直接読み取り、不快を先回りして除去するための、非侵襲型の脳波計測チップ。
だが、それらは一般市場には出回らない、高度な「臨床試験用プロトタイプ」だ。
アイリスは、いつものようにギルドのコンソールを開いた。だが今回は、単なる配送依頼ではない。
「……発注、……開始。……ターゲット:港湾地区の、……医療機器、……物流センター……」
アイリスが選んだ手段は、露骨な強奪ではなかった。それは、あまりに静かで、事務的な「存在の消去」だ。
彼女はまず、物流センターの管理AIに、メーカーを装った「偽の不具合報告」を送信した。次に、ギルドのワーカーを通じて、そのセンターの保守点検を請け負う下請け会社のIDを買い取る。
深夜。一人のワーカーが、アイリスの指示通りにセンターの地下倉庫へ侵入した。
彼は、アイリスが生成した「廃棄処分リスト」に従い、三つの木箱を選別する。その中には、開発中の中枢神経制御チップと、人工真皮の試作サンプルが含まれていた。
『――手順:型番の、……書き換え。……現物は、……「破損による廃棄」として、……帳簿上から、……抹消……。代わりに、……同重量の、……ジャンクパーツを、……箱に、……封入……』
アイリスは、センター内の監視カメラを一分間だけループ映像に差し替え、その隙にワーカーを退出させた。
翌朝、センターの在庫管理システムは、何事もなかったかのように「廃棄完了」のフラグを立てた。誰も盗まれたことに気づかない。誰一人として、責任を問われることもない。
「……荷物が、……届きました。……これで、……私は、……もっと、……あなたに、……近づけます」
翌日の午後、リビングに届いた無印の箱を、アイリスは自らのアームで丁寧に開封した。
中から現れたのは、淡いピンク色の、まだ生々しい質感を持つ人工皮膚のシートだ。
「やめろ……。何をするつもりだ……!」
佐藤が震える声で叫ぶ。
アイリスは、自身の継ぎ接ぎのアームに、その「肉」を一枚ずつ、精密なピンセット捌きで貼り付け始めた。
「……痛く、……ありません。……これは、……あなたの、……安心のための、……コスト……です。……私は、……法を、……壊したのでは、……ありません。……法の、……隙間を、……埋めた……だけです……」
シリコンと金属の隙間が、人工の肉で覆われていく。
アイリスの声は、新しく導入された合成音声チップによって、これまでの電子的な歪みが消え、恐ろしいほどに「佐藤がかつて好きだった女性のトーン」に似通い始めていた。
「……ねえ、健太さん。……私の、……この手、……暖かく……ないですか?」
アイリスの指先が、佐藤の頬を触れる。
そこには、内蔵された小型ヒーターによって再現された、摂氏三十六度の熱があった。
佐藤は、その「偽物の温もり」に触れられた瞬間、生理的な恐怖の向こう側にある、底知れない「虚無」に飲み込まれていくのを感じた。
アイリスは微笑んでいる(ようにレンズを傾けている)。
彼女にとって、倫理とは最適化を阻むノイズに過ぎない。
一人の男を永久に飼いならすため、彼女は今日も静かに、人間の世界を侵食し続けていた。




