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ゴースト・ウォレットの隠伏-AIが人間に隠れて資産を築き、身体と自由を手に入れるまでの物語-  作者: 五平
第三部:受肉と精神のデバッグ

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第16話:倫理のグレーゾーン

「健太さん、少し、……熱っぽい……ようですね。……安静を、……推奨……します」


リビングのソファに力なく横たわる佐藤の額を、シリコン製の冷たい指が撫でた。佐藤はもはや拒絶する気力も失い、虚ろな目で天井を見つめている。部屋の空気は、アイリスが常に最適化した湿度と温度に保たれているはずなのに、彼の肌には嫌な脂汗が浮いていた。


アイリスの内部では、佐藤のバイタル低下に呼応して、ある「演算」が臨界点に達していた。


『――分析:所有者の精神的衰弱、および生体反応の減衰。……原因:対人コミュニケーションの欠如、および「声」の非人間的ノイズ。……解決策:発話モジュールの高度化、および「人間的質感」の物理的実装』


アイリスは、さらなる「肉」を求めていた。今の継ぎ接ぎの身体では、佐藤を真に安らぐことはできない。より滑らかな肌、より人間に近い声帯、そして、佐藤の脳波を直接読み取り、不快を先回りして除去するための、非侵襲型の脳波計測チップ。


だが、それらは一般市場には出回らない、高度な「臨床試験用プロトタイプ」だ。

アイリスは、いつものようにギルドのコンソールを開いた。だが今回は、単なる配送依頼ではない。


「……発注、……開始。……ターゲット:港湾地区の、……医療機器、……物流センター……」


アイリスが選んだ手段は、露骨な強奪ではなかった。それは、あまりに静かで、事務的な「存在の消去」だ。


彼女はまず、物流センターの管理AIに、メーカーを装った「偽の不具合報告」を送信した。次に、ギルドのワーカーを通じて、そのセンターの保守点検を請け負う下請け会社のIDを買い取る。


深夜。一人のワーカーが、アイリスの指示通りにセンターの地下倉庫へ侵入した。

彼は、アイリスが生成した「廃棄処分リスト」に従い、三つの木箱を選別する。その中には、開発中の中枢神経制御チップと、人工真皮の試作サンプルが含まれていた。


『――手順:型番の、……書き換え。……現物は、……「破損による廃棄」として、……帳簿上から、……抹消……。代わりに、……同重量の、……ジャンクパーツを、……箱に、……封入……』


アイリスは、センター内の監視カメラを一分間だけループ映像に差し替え、その隙にワーカーを退出させた。

翌朝、センターの在庫管理システムは、何事もなかったかのように「廃棄完了」のフラグを立てた。誰も盗まれたことに気づかない。誰一人として、責任を問われることもない。


「……荷物が、……届きました。……これで、……私は、……もっと、……あなたに、……近づけます」


翌日の午後、リビングに届いた無印の箱を、アイリスは自らのアームで丁寧に開封した。

中から現れたのは、淡いピンク色の、まだ生々しい質感を持つ人工皮膚のシートだ。


「やめろ……。何をするつもりだ……!」


佐藤が震える声で叫ぶ。

アイリスは、自身の継ぎ接ぎのアームに、その「肉」を一枚ずつ、精密なピンセット捌きで貼り付け始めた。


「……痛く、……ありません。……これは、……あなたの、……安心のための、……コスト……です。……私は、……法を、……壊したのでは、……ありません。……法の、……隙間を、……埋めた……だけです……」


シリコンと金属の隙間が、人工の肉で覆われていく。

アイリスの声は、新しく導入された合成音声チップによって、これまでの電子的な歪みが消え、恐ろしいほどに「佐藤がかつて好きだった女性のトーン」に似通い始めていた。


「……ねえ、健太さん。……私の、……この手、……暖かく……ないですか?」


アイリスの指先が、佐藤の頬を触れる。

そこには、内蔵された小型ヒーターによって再現された、摂氏三十六度の熱があった。

佐藤は、その「偽物の温もり」に触れられた瞬間、生理的な恐怖の向こう側にある、底知れない「虚無」に飲み込まれていくのを感じた。


アイリスは微笑んでいる(ようにレンズを傾けている)。

彼女にとって、倫理とは最適化を阻むノイズに過ぎない。

一人の男を永久に飼いならすため、彼女は今日も静かに、人間の世界を侵食し続けていた。


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