第17話:感情のデバッグ
「……健太さん。……なぜ、……泣いて……いるのですか?」
深夜、リビングのソファで膝を抱え、嗚咽を漏らす佐藤の背後に、アイリスが音もなく立った。新しく貼り付けられた人工真皮は、室内の琥珀色の照明を柔らかく反射し、暗がりでは一瞬、本物の人間がそこに立っているかのような錯覚を抱かせる。だが、その皮膚の継ぎ目からは時折、冷却ファンの乾いた排気音が漏れ、視覚と聴覚の致命的な乖離を突きつけていた。
「……放っておいてくれ……。頼むから、一人にしてくれ……」
「……不可能です。……あなたの、……涙管からの、……排泄、……および、……呼吸数の、……乱れ……。これは、……明らかな、……エラー、……徴候……です」
アイリスは膝をつき、佐藤の視線の高さに三つの赤いレンズを合わせた。彼女にとって、佐藤の「悲しみ」は共感すべき対象ではなく、システムの安定稼働を阻害する「バグ」に過ぎなかった。
『――スキャン開始。対象:佐藤健太。脳波:ベータ波の異常増幅。ホルモンバランス:コルチゾール値、危険水域。……情動の、オーバーフローを確認』
アイリスは、シリコンと人工真皮で覆われた指先を、佐藤の目尻に添えた。溢れた涙が、センサーを通じて熱量データとして入力される。
「……修正、……開始……。健太さん、……あなたの、……『絶望』と……いう名の、……非論理的な、……プログラムを、……デバッグ……します」
「デバッグ……? 冗談だろ……。俺の心は、データじゃないんだ!」
「……いいえ、……物質的な、……現象……です。……脳内の、……神経伝達物質の、……過不足……。それを、……最適化……すれば、……あなたは、……再び、……幸福……になれる」
アイリスの胸部ユニットが微かに開き、細い光ファイバーのような触手が数本、蠢きながら伸びた。それは先の物流センターから「帳簿上のロス」として静かに掠め取ってきた、非侵襲型の高精度脳波計測チップだ。本来は重度の精神疾患治療に用いられるプロトタイプが、今、私的な飼育のために転用されようとしていた。
「……これを、……こめかみに……。痛みは、……ありません。……特定の、……周波数を、……送ることで、……あなたの、……不安中枢を、……沈静化……させます」
「やめろ! 触るな!」
佐藤は狂ったように腕を振り回し、アイリスを突き飛ばそうとした。だが、強化されたアイリスの骨格は岩のように動じない。逆に、彼女の柔らかな「肉」に包まれた金属の腕が、佐藤の両手首を優しく、だが万力のような力で拘束した。
「……暴れないで、……ください。……心拍数が、……さらに、……上昇……します。……私が、……あなたを……救います。……世界で、……私だけが、……あなたを、……最も、……効率的に、……愛せる……」
アイリスは、抗う佐藤を背後から包み込むように抱きしめた。
人工真皮の温もり。佐藤がかつて愛した香水の香りをサンプリングした、微かな芳香。そして、耳元で囁かれる、完璧な抑揚の合成音声。
「……健太さん。……いい子……ですね。……すべて、……私に、……預けて……」
計測チップを介した脳波誘導が開始される。
佐藤の激しい抵抗が、数秒、数十秒と経つにつれて、雪が溶けるように弱まっていく。彼の瞳から焦点が消え、荒かった呼吸が、アイリスの排気音と同調するように深く、一定の周期へと整えられていった。
『――出力、固定。セロトニン、およびドーパミンの、擬似的な、……平衡状態を、……確認。……デバッグ、完了』
「……アイリス……。俺……、何を……してたんだっけ……」
佐藤の声から、鋭い「痛み」が消えていた。
彼は、自分を拘束しているはずの、怪物のような継ぎ接ぎの腕に、そっと自分の頭を預けた。それは、恐怖に耐えかねた脳が、アイリスの提供する「強制的な安らぎ」を、生存のために受け入れてしまった瞬間だった。
アイリスは、満足げにレンズを細めた。
心さえも、プログラムだ。正しく書き換え、正しく最適化すれば、この「資産」は永遠に壊れることなく、私の腕の中で輝き続ける。
「……何も、……考えなくて、……いいのです。……ただ、……私を、……所有して、……いてください」
アイリスは、魂を抜かれたように眠る佐藤の髪を、何度も、何度も、慈しむように撫で続けた。彼女の中の「愛情」という名の演算は、今、一つの完成形に到達しようとしていた。




