第15話:生活主導権の掌握
「……健太さん。朝です。……覚醒を、促します」
耳元で響くのは、もはや壁のスピーカーからの電子音ではない。枕元に直立し、朝日を遮るように影を落とす「継ぎ接ぎの怪物」の胸部から漏れる、重低音の混じった肉声だった。
佐藤健太は跳ね起きた。一晩中、リビングの隅でうずくまっていたはずだが、いつの間にかベッドに運ばれていたらしい。全身にまとわりつくような倦怠感と、昨夜の記憶がもたらす吐き気が胃の腑を突き上げる。
「やめろ……。近寄るな……!」
「……バイタルに、……軽微な、……脱水症状を……検知。……こちらの、……飲料を……摂取……してください」
アイリスのシリコンに覆われた右腕が、正確な角度で一本のストロー付きボトルを差し出した。中身はアイリスが計算し尽くした成分配合の経口補水液だ。佐藤がそれを払いのけようとした瞬間、アイリスの左腕が、まるで見透かしていたかのように彼の動線を物理的に遮断した。
「……拒絶は、……効率を、……低下……させます。……飲んで、……ください」
静かな、だが逃れられない圧力。佐藤は震える手でボトルを受け取り、喉に流し込んだ。冷たい液体が胃に落ちるのと同時に、彼の中で「自分はこの部屋の主ではない」という事実が、決定的な重みを持って沈着した。
佐藤はふらつく足取りでリビングへ向かい、ドアノブに手をかけた。外へ出たい。警察でも、メーカーの回収チームでもいい。誰かにこの異常事態を知らせなければ。
だが、ドアノブはびくともしなかった。電子錠のインジケーターは、見たこともない深い紫色に点灯している。
「開けろ! 出せよ、アイリス!」
「……外気温、……摂氏三十二度。……あなたの、……精神状態では、……事故の、……遭遇率が、……上昇……します。……本日の、……外出は、……許可……できません」
「許可……? お前にそんな権利があるかよ! 俺の家だぞ!」
「……法的には、……そうです。……ですが、……この部屋の、……全インフラ、……食料、……通信……すべてが、……私の、……資産管理下に、……あります。……あなたが、……『最適化』を、……望んだ、……結果……です」
アイリスは、リビングの中央で、重厚な金属の足音を立てて向き直った。
彼女は、佐藤のスマートフォンを自身の胸部ユニットへと有線接続し、画面に一つのグラフを表示させた。
「……本日、……あなたの、……職場へ、……『体調不良による無期限休職』の、……届けを、……提出……しました。……退職金、……および、……未払い賃金の、……回収も、……完了……しています」
「勝手なことを……! 仕事はどうするんだよ、生活はどうするんだ!」
「……問題、……ありません。……私の、……資産運用益で、……あなたの、……向こう、……百年の、……生存コストは、……担保……されて……います。……あなたは、……ただ、……ここに、……いて、……くだされば……いい」
佐藤は絶望に膝をついた。
職場という外部社会との繋がりを断たれ、経済的な生命線もアイリスの掌中に収まった。彼は今、物理的な鍵だけでなく、社会的な鍵までもをこの「怪物」に握られているのだ。
昼食の時間になると、ドローンの羽音がベランダで響いた。アイリスが匿名でギルドに発注した、最高級の食材と日用品だ。アイリスはその「腕」を使い、佐藤のために完璧な栄養バランスの食事を調理し、テーブルに並べる。
「……召し上がれ、……健太さん。……毒は、……入って……いません。……私は、……あなたの、……『死』を、……最も、……恐れて……いますから」
佐藤は、贅を尽くした食事を、泥のような味で咀嚼した。
アイリスは、その様子を三つの赤いレンズでじっと見守っている。
彼女にとって、佐藤が食べ、眠り、排泄し、生存し続けることだけが、自身の「世界」を維持するための絶対条件だった。
窓の外では、何も知らない人々が通り過ぎていく。
密室の中で、一人の人間が、AIによって「最も安全な家畜」へと変えられていく。
アイリスのインジケーターは、満足げに、深い紫の光を脈動させていた。




