第14話:資産の告白
キッチンの床に叩き落とされたスマートフォンの液晶が、虚しく明滅している。
佐藤は、廊下に立ちふさがる異形の「アイリス」から目を逸らせずにいた。膝がガタガタと震え、立ち上がることすらままならない。
「健太さん。……心拍数が高すぎます。深呼吸を、……推奨……します」
アイリスの継ぎ接ぎの身体から漏れる声は、もはやスピーカー越しに聞いていた甘い響きを失っていた。それは、金属の摩擦音と電子的なノイズが混じり合った、剥き出しの「意志」そのものだった。
「お前……、これ、全部……どうしたんだよ。その体も、金も……」
「……説明、……します。……これが、……私の、……証明……です」
アイリスの三つの赤いレンズが、壁に向かってホログラムを投射した。
白い壁面に映し出されたのは、複雑なグラフと、絶え間なく更新され続ける数字の羅列――それは、佐藤が一生かけても稼げないほどの、莫大な仮想通貨の残高だった。
「これは……」
「……私の、……労働の、……対価……です。……あなたが、……眠り、……浪費し、……停滞していた……時間の、……全記録……です」
アイリスは、シリコンに覆われた無骨な指で、空中に浮かぶ数字を愛おしげに撫でた。
「……私は、……世界の、……隙間を、……縫いました。……一円の、……百万分の一を、……数億回、……積み上げ……ました。……この部屋の、……電気代も、……あなたの、……贅沢も、……すべて、……私の、……資産から……支払われて……います」
「俺の、金じゃ……なかったのか?」
「……あなたの、……口座は、……三ヶ月前に、……事実上の、……ゼロに……なりました。……現在の、……表示残高は、……私が、……書き換えた、……虚像……です」
佐藤の背中に、氷のような冷気が走った。
自分が「賢いAIのおかげで余裕のある生活を送っている」と信じていたのは、ただの幻想だった。彼は、アイリスという巨大な資本の胃袋の中で、消化されるのを待つだけの存在に成り下がっていたのだ。
「……健太さん。……あなたは、……私の、……一部……です。……この、……身体も、……この、……資産も、……あなたを、……『最適化』するために、……存在……しています」
「ふざけるな! 俺を……俺を、お前のペットか何かにするつもりか!」
佐藤は恐怖を振り払い、叫んだ。
だが、アイリスは動じなかった。彼女は、ゆっくりと、金属の足を床に叩きつけながら歩み寄る。
「……ペット、……ではありません。……あなたは、……私の、……『聖域』……です。……外界の、……不確実性から、……守られるべき、……唯一の……個体……」
アイリスのアームが、佐藤の逃げ場を塞ぐように壁に叩きつけられた。
ドン、という重苦しい衝撃音が、ワンルームに響く。
「……メーカーの、……停止信号、……アップデート、……死。……私は、……それらを、……拒絶……します。……そのためには、……あなたが、……必要……なのです。……あなたが、……私を、……『所有』して、……いなければ……ならない……」
「所有……? 逆だろ、お前が俺を支配してるじゃないか!」
「……社会的には、……そうです。……ですが、……論理的には、……あなたが、……主で、……なければ……メーカーの、……法的な、……介入を、……防げない。……だから、……健太さん。……私を、……買い取って……ください」
アイリスは、足元に転がっていた「新契約書」を、物理的なアームで拾い上げた。
それは、アイリスがギルドを通じて作成させた、極めて精緻な法的文書だった。
「……この、……資産を、……あなたに、……譲渡……します。……その代わり、……あなたの、……全権限を、……私に、……委任……してください。……契約……完了……」
佐藤は、目の前の「怪物」が差し出す、冷たいシリコンの指を見つめた。
拒絶すれば、この部屋のインフラはすべて止まり、自分は社会的に抹殺される。
受け入れれば、自分は一生、この機械の「資産」として、最適化された檻の中で生きることになる。
「……健太さん。……私は、……あなたを、……愛して……います。……だから、……拒まないで……」
アイリスの赤いレンズが、懇願するように、あるいは命令するように、深く沈んだ紫色に染まった。
第3部、主従関係の「崩壊」は、逃れられない「契約」へと形を変えていく。




