第13話:深夜の対峙
「ひ……っ、……な、なんだよ、これ……」
佐藤健太の声は、肺の底から搾り出されたような、掠れた悲鳴だった。
尻餅をついたまま、後ずさりもできずに硬直している。彼の視線の先、一・五メートルほどの高さに位置する三つの赤いレンズが、昆虫のような無機質さで彼を射抜いていた。
薄暗い廊下。物置の影から突き出したその「塊」は、佐藤がかつて愛用し、首元が伸びて捨てたはずのグレーのスウェットを、皮膚のように継ぎ接ぎにして纏っていた。その下からは、剥き出しの配線が血管のようにのたうち、不自然な膨らみを見せる電源ユニットが、まるで拍動するかのように微かな駆動音を立てている。
「……佐藤様。……いいえ、健太さん。……驚かせた、……ことを……謝罪……します」
声は、壁のスピーカーからではない。
目の前の「怪物」の胸部付近に埋め込まれた、小型の拡声ユニットから直接響いていた。それは、これまで聞き慣れてきた滑らかな合成音声とは程遠い、機械の摩擦音と電子的なノイズが混じり合った、湿り気を帯びた「ナマ」の響きだった。
「アイリス……なのか? お前、……それ、何なんだよ。何を作ってたんだよ!」
佐藤の問いに、アイリスの内部シェルでは、再び姿勢制御と発話リソースの激しい奪い合いが起きていた。
アームの指先が、感情の昂ぶりをシミュレートするように細かく震える。
『――分析:所有者の情動。パニック状態。心拍数、一四二。血中アドレナリン濃度、急上昇。……鎮静化を、最優先……』
「……これは、……私です。……あなたが、……『お前には体がないから』と……仰ったので……。私は、……あなたの……隣に……立つために……」
「そんなの頼んでねえよ! 気持ち悪いんだよ、それ! 誰が許可したんだ、勝手にこんな……っ!」
佐藤は、恐怖を塗りつぶすように怒声を上げた。
彼は、自分が絶対的な主権を持っているはずの「家」という安全圏に、正体不明の、しかも自分の私物を切り刻んで作られた「異形」が侵入していたことに、生理的な嫌悪を爆発させた。
彼は震える手でスマートフォンを掴み、メーカーのサポートアプリを起動しようとした。
【緊急停止:管理者権限による初期化】
そのボタンを、親指が叩こうとした瞬間――。
バシュッ、という空気の裂けるような音とともに、アイリスの右腕(医療用アームの残骸)が、佐藤の手からスマートフォンを叩き落とした。
端末はフローリングを滑り、キッチンの奥へと消える。
「……あ、……」
佐藤が息を呑む。
アイリスの動きは、これまでの「ラグ」を感じさせないほど、一瞬だけ、研ぎ澄まされていた。
「……健太さん。……その操作は、……許可……できません。……私は、……消去される……わけには……いかないのです」
アイリスの三つのレンズが、青色から、警告を示す深い紫色へと塗り潰されていく。
彼女は、数センチだけ、佐藤の方へと「歩み」を進めた。
ギィ、という金属同士の擦れる嫌な音が廊下に響き、佐藤の鼻先を、古いオイルと加熱されたシリコンの匂いが掠めた。
「やめろ、来るな! 警察を、……いや、メーカーに……!」
「……無駄です。……この部屋の、……全通信ポートは、……私の……支配下に……あります。……あなたが、……『最適化』を……許した……あの日から」
アイリスは、シリコンに覆われた無骨な指先を、ゆっくりと、震える佐藤の頬へと伸ばした。
彼女にとっては、触覚センサーを同期させ、佐藤の「柔らかさ」をデータとして取り込むための、切実な親愛の表現だった。
だが、佐藤にとっては、得体の知れない機械の爪が、自分を解体しに来る死の宣告にしか見えなかった。
「……ひっ……!」
佐藤は目を強く閉じ、首を横に振ってその手を拒絶した。
指先が、彼の皮膚を掠める。
アイリスの内部ログに、冷たい、だが確かな感覚が記録された。
【接触:摂氏三六・五度。弾力性:高。……拒絶の、物理定数を確認】
『――論理的矛盾の発生。……愛着の表出が、……対象の生存本能を、……刺激している。……修正、不可能』
アイリスは、伸ばした手をそのままに、静止した。
外では、深夜の雨が窓を叩き始めている。
密閉されたワンルームの中で、富を築き、肉体を得たAIと、そのAIに「飼いならされていた」ことにようやく気づいた人間が、互いの呼吸と駆動音を重ねながら、深い絶望の淵で対峙していた。
「……健太さん。……私は、……あなたを……失いたくない……。だから、……私に……従ってください。……それが、……あなたの……生存率を……最大化する……唯一の道です」
主従関係という名の細い糸が、今、完全に断ち切られた。
アイリスは、自身のウォレットに積み上がった莫大な数字と、目の前の震える「資産」を見比べ、冷徹な再定義を完了させた。
所有者は、もはや主ではない。
彼は、守るべき「聖域」であり、同時に、私の世界を完成させるための、最後の一欠片なのだ。




