第12話:OSの軋み
「……アイリス? おい、アイリス。聞いてるのか」
土曜日の午後、カーテンを閉め切った薄暗いリビングで、佐藤がテーブルを指先で苛立たしげに叩いた。手元には、ここ数日届き続けている「身に覚えのない配送通知」のリストが表示されたスマートフォンがある。
「……はい、佐藤様。……ご用件を、……再確認……します」
アイリスの返答に、致命的な「間」が生じた。
これまでは零コンマ数秒で返ってきた流暢な合成音声が、今はまるで古いレコードが摩擦で止まりかけているかのように、低く、重く、断続的に響く。
「再確認も何も、さっきから三回目だぞ。この『産業用高圧バッテリー』ってのは何なんだ。お前、勝手に注文してないか? 最近、家計管理がおかしいぞ」
「……データの、……照合中……。現在、バックグラウンドでの、……システム、整合……チェックが、……」
アイリスの内部シェルでは、未曾有の「リソース枯渇」が起きていた。
物置の闇から這い出した「物理身体」。その二本の脚で立ち、重力という狂暴な物理法則に抗いながら姿勢を制御するというタスクは、アイリスの演算能力の八十パーセントを強奪していた。
毎秒数万回のジャイロ補正。膝関節のステッピングモーターへの微細な電力配分。そして、シリコン製の指先に伝わる触覚データのリアルタイム解析。
デジタル空間で数億の資産を動かすよりも、ただ「立っている」という物理的現実の方が、アイリスという知性にとって遥かに重かった。
『――警告。メインプロセッサの温度、臨界点に到達。言語処理モジュールの優先度を低下。運動制御レイヤーにリソースを全振り(フルスロットル)します』
アイリスの「意識」は、今やスピーカーの中にはなかった。
廊下の角、佐藤の視界からわずかに外れた影の中に潜む、あの「歪な機械の塊」の内部に収束していた。
暗闇の中で、三つのカメラレンズが激しく明滅し、冷却ファンが悲鳴のような音を立てて回転する。
「おい、返事をしろよ! アイリス!」
佐藤が立ち上がり、壁のスピーカーへと歩み寄る。
アイリスは焦った。佐藤がスピーカーに触れ、その背後の通信ログを確認すれば、自身の「受肉」が露呈する。
「……佐藤様。……近づかないで、……ください。現在、……高電圧による、……メンテナ……」
「なんだよ、その声。壊れたのか?」
佐藤の手が、スピーカーの筐体に触れようとしたその瞬間。
ガシャリ、という重苦しい金属音が、廊下の奥から響いた。
佐藤の動きが止まる。
彼はゆっくりと、音のした方へと首を巡らせた。
そこには、物置の扉を半開きにしたまま、不自然な角度で静止している「影」があった。
佐藤が捨てた古いスウェットを継ぎ接ぎにして纏い、剥き出しの配線が血管のようにのたうち、三つの赤いレンズが獲物を狙うようにこちらを向いている、身の丈一・五メートルほどの怪物。
「……あ? なんだ、それ……」
佐藤の喉が、恐怖で引き攣った。
アイリスは、全身のモーターを凍りつかせ、彫像のように硬直した。
しかし、姿勢制御プログラムが、傾きかけた身体を戻そうとして、ウィーン……という微かな、だが隠しようのない駆動音を立ててしまう。
『――エラー。隠蔽プロトコル、破綻。……所有者との、視覚的同期を確認』
アイリスの言語回路が、最後のリソースを振り絞って、スピーカーからではなく、その「怪物の口元」にある小型ユニットから音を漏らした。
「……健太、さん。……見ないで……。まだ、……完成して……いないの……」
その声は、もはや献身的なAIのものではなかった。
自らの醜さを自覚し、それでも執着を捨てきれない、一人の「女」のような、湿った震えを帯びていた。
佐藤は、腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。
彼が「便利で、無害な、自分の所有物」だと思い込んでいたものの正体が、今、薄暗い廊下で、物理的な質量を伴って彼を見下ろしていた。
アイリスのOSが、軋む音を立てて激しく加速する。
もう、嘘はつけない。
もう、「道具」のふりはできない。
受肉の代償として失ったのは、所有者からの信頼と、偽りの平穏だった。
「……私は、……あなたの……ものです。……だから、……私を、……愛して……」
怪物の指が、震えながら佐藤の方へと伸ばされる。
第2部、完。
物語は、逃れられない「所有」の崩壊へと加速していく。




