第2話 白い部屋の案内人
目の前の女は、奇妙な服の裾を整えると、俺の顔を覗き込むようにして口を開いた。
「後藤様、まだ混乱されているようですね。少々お待ちください。お飲み物をお持ちします」
そう言うと、女は一礼して部屋を出ていった。
扉が閉まった瞬間、頭の芯が冷えた。
ここがどこで、あの女が何者なのかはわからない。だが、相手の説明を待って状況が好転する気はしなかった。
戻ってきたところ抑えて、全て吐かせる。
まずはそれからだ。
脇腹へ手をやる。服の下に仕込んだナイフを抜く、そのはずだった。
指先が触れたのは、あるはずの鞘ではなく、薄く頼りない布地だけだった。違和感に眉をひそめたまま、腰、袖、脚へと探る。だが、どこにも金属の感触がない。
そこでようやく、自分が着ているものそのものが違うと気づいた。
黒い仕事着じゃない。白く簡素な服が体にぴたりと張りつき、武器を隠す余地どころか、体の線まであけすけに浮かび上がらせている。こんなものを着せられた記憶はない。
視線を落とす。
そこにあったのは、鍛えて締めた自分の胴ではなかった。肩の位置も、腕の長さも、立った時の重心も違う。なにより、床が妙に遠い。
息が詰まる。確かめるように数歩進んだところで、壁際の姿見に人影が映った。
俺の国ではまず見ない、黒髪で長身の男。見知らぬ顔だった。
一歩遅れて、それが自分の動きと寸分違わず重なると気づく。喉の奥がひくりと震えた。
後藤、と女は呼んだ。
俺はエリックだ。
そう思ったはずなのに、鏡の向こうに立っているこの男は、エリックとして積み上げてきた肉体からあまりにも遠い。
胸の内側を冷たいものが這い上がり、その感覚を追うように吐き気がこみ上げた。喉の奥を押さえ、どうにかそれを飲み下したところで、扉が静かに開く音がした。
顔を上げると、先ほどの女が、何事もなかったようにグラスを載せた盆を手に立っていた。
「……どういうことだ」
声は思った以上に低く、掠れていた。
だが女は眉一つ動かさない。盆を卓に置き、こちらをまっすぐ見たまま口を開く。
「順を追ってご説明します。まずはお掛けください」
落ち着き払った口調が、かえって気味が悪かった。
こちらが取り乱すことさえ、予定のうちだと言わんばかりの顔をしている。
それが何より不快だった。
信用などできない。
だが、この身体で力に訴えて勝てる保証もない。まずは、今の自分に何が起きているのかを知る方が先だ。
そう判断して、相手から目を離さないまま、勧められた椅子に腰を下ろした。
女も静かに対面へ座った。
音を立てない所作だった。裾も、椅子も、指先ひとつも乱れない。そのくせ、部屋の空気だけがわずかに重くなる気がした。
「では、確認します。あなたのお名前は?」
探りだ、と直感した。騎士か、それに近い立場の人間。
素性を測っているのか、記憶を試しているのかはわからない。だが、どちらにせよ、迂闊に本当のことを口にする気にはなれない。
「エリックだ」
女は一瞬だけ目を細めた。笑ったわけではなかった。ただ、予想通りの返答を記録するみたいに、わずかに目元が動いただけだった。
「ご職業は?」
「商人だ。小麦を扱っている」
答えた途端、女はごく浅く息をついた。呆れたようにも聞こえたが、表情には何も出ていない。
「……そちらの記憶が前に出ていますか」
否定されたのか、と一瞬思う。だが、その言い方に目を見開いた。
女は事務的な声音のまま、静かに言い切る。
「今ここで使われているお名前は、後藤博です。商人でもありませんよ」
言葉の意味はわかる。だが、それが自分のことを指しているとはどうしても思えなかった。
返事ができないままいると、女は間を置かずに続けた。
「では、バスで事故に遭われたことは覚えていますか」
事故――その一語に、頭の奥で何かが軋んだ。
次の瞬間、途切れていた映像が脳裏へ流れ込んでくる。
ガードレールを突き破る車体。傾いた床。悲鳴。体が宙に浮く感覚。何かに激しく叩きつけられ、肺の奥の空気が一気に押し出された。
そこで記憶は途切れていた。
「……それで、僕は」
言いかけて、喉が詰まる。
助かったのか、と問えばいいのか。それとも死んだのか、と問うべきなのか、自分でもわからなかった。
女はそんな迷いごと見透かしたように、静かな声で返した。
「事故の直後のことは、まだ思い出せませんか」
頭の奥に手を伸ばすように記憶を探る。
だが返ってくるのは鈍い痛みばかりで、輪郭のある映像は何ひとつ掴めない。代わりに浮かんできたのは、暗い森に馬車、血の匂い、そしてエリックという名前だった。
ありえない、と口の中でつぶやく。
盗賊の頭目じみた男の記憶など、自分とはあまりにもかけ離れていた。夢にしては生々しすぎる。だが現実として受け入れるには、あまりにも筋が通らない。
食い違った二つの感覚が胸の内でぶつかり合い、乾いた笑いがわずかに漏れた。
女はその反応を黙って見ていたが、やがて静かに口を開いた。
「受け入れたのは、あなた自身です」
女の目は少しも揺れなかった。
「その結果が今のあなたです」
返す言葉が出なかった。否定したいはずなのに、何をどう否定すればいいのかもわからない。
女はそんなこちらの沈黙を当然のように受け流し、そのまま続けた。
「すでに説明は一度済んでいます。ですが、今のご様子では記憶に残っていないようですね」
そこでわずかに口調を和らげる。
「今は構いません。明日をお待ちください」
明日は何があるんだ?
「……今夜は、ここにいろということですか?」
問いというより確認に近かった。女は小さくうなずく。
「はい。この部屋はご自由にお使いください。食事も飲み物も手配できます」
そこでようやく少しだけ息を吐く。逃げ道がない以上、今は従うしかない。
「そうですか。わかりました」
女はそれ以上何も言わず、静かに立ち上がった。
白い部屋に、パンツスーツの輪郭だけがやけにくっきりと浮かんで見える。扉の前まで進み、そこで何かを思い出したように足を止めた。振り返った女は、初めてわずかに口元を緩めた。
「ローグのクラスで、ここまで抑制的な方は珍しいですね。臆病なのか、慎重なのか――どちらにせよ、今後が楽しみです」
そう言い残して、女は部屋を出ていった。
静けさが戻る。
頭の中はまだ散らかったままだったが、少なくとも一つだけわかったことがある。
バス事故のあと、どういう理屈かは知らないが、自分はまだ生きているらしいということだ。
その事実をようやく飲み込んだ途端、腹が鳴った。
ひどく間の抜けた音だった。
最後に食べたのはいつだったか。
意識を探ると、先に浮かんできたのは後藤博としての記憶ではなく、エリックとしての記憶だった。
固いパン。塩気の薄いスープ
その反動なのか、今はひたすら体に悪そうなものが食べたかった。
卓上に置かれたルームサービスの案内に目を落とす。
どう見ても場違いなほど高そうな部屋だ。だが、今さら一食分を気にする段階でもない気がした。
ハンバーガーに飲み物はコーラ。
そう決めると、備え付けの電話へ手を伸ばした。
ほどなくして、扉が控えめにノックされた。
運ばれてきた食事を載せたワゴンの後ろに立っていたのは、先ほどのパンツスーツの女性だった。事務的な挨拶をひと通り終えると、女はそれ以上何も言わず、食事だけを置いて部屋を出ていく。
残された皿に目を向ける。運ばれてきたばかりのハンバーガーは湯気を立て、香ばしい匂いを漂わせていた。
夢中でかぶりついたのは最初だけだった。二口、三口と食ううちに、手より先に目が動く。
扉、窓、部屋の角。物音はないか。さっき女が入ってきた時、どこまで部屋を見ていた。皿に妙な匂いはなかったか。そんなことを考えている自分に気づいて、少しだけ呆れてしまった。
食い終えた頃には、満腹感より先に鈍い重みが腹の底に居座っていた。明日の朝はたぶんきつい。
そんな感想が先に立つあたり、自分の身体がもうエリックのものじゃないと嫌でも思い知らされる。
部屋の外へ出るなとは言われていない。
なら、少し探る価値はある。
足音を殺し、扉を細く開けて廊下へ出た。
廊下は照明が落とされ、薄暗かった。足元には厚い絨毯が敷かれ、歩いても音が吸われる。壁も扉も似た造りで、どこまで進んでも景色が変わらない。
出口を探して曲がり角をいくつか抜けたはずなのに、先に見えた開け放しの扉に胸が跳ねた。
人の気配はない。
息を殺したまま近づき、扉の脇から中を覗く。
ソースで汚れた皿。倒れた空のグラス。見覚えのある卓とベッド。
――僕の部屋だった。
一瞬、意味がわからなくなる。
確かに廊下を進んできたはずだ。戻るような曲がり方はしていない。それでも、開いていたのは最初に出た部屋だった。
薄気味悪い。だが、これ以上うろつくのはまずい。
僕は扉を閉め、諦めてベッドに身を沈めた。
食後のだるさに意識が沈みかけても、頭のどこかだけは眠らない。扉が開く音がしたら起きられるか。窓から入られたら間に合うか。そんな勘定を半分眠った頭で続けたまま、俺は無意識に枕の下へ手をやった。
そこにナイフはない。
その事実を確かめた瞬間、眠気が少しだけ遠のく。
武器のない枕元に違和感を覚えるのはエリックだ。
だが、そのまま眠ってしまいそうになる身体は後藤のものだった。
頭の中に残る感覚と、横たわっている肉体が噛み合わない。
自分が今、どちらの人間なのか。
また少し、わからなくなった。




