第19話 小盾の副官
土煙の向こうに目を向ける。
地面に沈んだ巨体が、のそりと起き上がった。
「エリックさん、アンドン。夜更けに稽古とは感心ですな。わしも混ぜてください」
「……ルドガー」
思わず声が漏れた。なぜこんなタイミングでここにいるのかはわからない。だが、助かった。それだけは間違いない。
アンドンは一瞬だけ目を細め、それからいつもの気の抜けた顔に戻る。
「さすが副官、と言うべきですかね。でも、その小さな盾で僕の槍を受けるのは、さすがに厳しいでしょう」
ルドガーの手にあるのは、小さな丸盾だけだった。
あの巨体を守るには、あまりにも頼りない。まともに受ければ、盾ごと腕を持っていかれてもおかしくない。
だが、ルドガーはまるで気にした様子もなく、肩を鳴らした。
「はっは。御託はいいから、来い。稽古をつけてやる」
「困りましたね」
アンドンはため息まじりに槍を構え直す。
声色はいつも通り軽いのに、穂先だけは少しも揺れない。
「僕、あなたのこと結構好きなんですよ。だから、できれば殺したくない」
「そんなちんけな槍ごときで死ぬわけなかろう。さっさと来い」
次の瞬間、アンドンの槍が掻き消えた。
そう見えたのは、踏み込みも、腰の捻りも、槍を振り出すまでの予備動作も、すべてが月明かりの下で一つに重なり、気づいた時にはもう鋼の穂先だけが一直線にルドガーの手元へ走っていたからだ。
乾いた音が鳴る。
ルドガーの丸盾が、その一撃だけを正確に弾いた。
アンドンの目が細くなる。
手首、膝、脇腹。殺し切るのではなく、まず相手の動きを削ぐような連撃が、ほとんど間を置かずに放たれる。
ルドガーは大きく動かない。
踏み込まず、跳ねず、ただ半身をずらし、肩を落とし、盾の角度をほんのわずかに変えるだけで、普通なら一撃防ぐごとに体勢を崩しておかしくないはずの槍を、まるで最初からそこへ来ると知っていたみたいに受け流し、いなし、外していく。
小さい盾ひとつ。
それだけでだ。
「おいおい、手と足ばかり狙っとるぞ」
ルドガーは鼻で笑った。声にはまだ余裕がある。
「遠慮するな。どうせなら胴を抜くつもりで来い」
新兵に稽古をつける教官みたいな口ぶりだった。
だが、目の前で起きているのはそんな生易しいものじゃない。まともな相手なら、今の数合でとっくに腕か脚の一本は潰され、地面に転がっていたはずだ。
オルグ戦もルドガーにまかせればよかったか、場違いにもそう思ってしまった。
アンドンの口元から笑みが消えた。
「その小盾で、ここまで捌かれるとさすがに傷つきますね」
「はっは。なかなか見どころがあるぞ。どうだ、『灰羽』でその槍を振るわんか?」
その言葉に、アンドンは一度だけ目を細めた。
困ったように笑ってはいたが、さっきまで口元に貼りついていた軽薄さは、もうそこになかった。
そして、構えが変わる。
腰が沈み、踏み込みが深くなる。さっきまでの牽制混じりの槍とは違う。間合いの外にいたはずなのに、次の一撃は最初からルドガーの胴を貫き、そのまま向こう側まで抜けるつもりで放たれていた。
殺すための槍だった。
ルドガーは真正面からは受けない。
丸盾をわずかに傾け、穂先を外へ逸らす。
その瞬間、甲高い破砕音が夜気を裂いた。
小盾が耐えきれず、中心からひび割れ、砕け散る。
「これで終わりです」
アンドンが言い切るより早く、突きはさらに伸びた。
視界に入った時にはもう遅い。ただ一直線の殺意だけが、砕けた盾の向こうからルドガーの胸へ食い込んでいく。
だが、槍はそこで止まった。
アンドンの顔が驚愕に染まる。
目の前には、槍身を素手で掴み取ったルドガーが立っていた。
分厚い指が鉄を握り込み、それだけで突進の勢いごと殺している。
「今のはよかったぞ」
ルドガーは砕けた盾を足元に落とし、口の端をわずかに吊り上げた。
「どうだ。部隊長待遇で『灰羽』に来んか?」
アンドンの肩から、ふっと力が抜けた。
張りつめていた殺気まで、そこでようやく途切れる。
「……僕の負けですね」
そう言ってから、アンドンは困ったように笑った。
「あーあ。結構、自信あったんですけどね。ルドガーさん、強すぎでしょう。こんな化け物がいるなんて聞いてませんよ。これじゃ、全然割に合わない」
その言い方で十分だった。
「依頼した相手に義理立てする必要はない。約束の金だけ受け取って、俺の護衛をやれ」
アンドンの体が、びくりと震えた。
「……僕、依頼だなんて言ってませんよね?」
「だいたいわかるだろ。ルドガー、今日からアンドンはお前の部下だ。せいぜいこき使え」
アンドンはわずかに眉を上げたが、否定はしなかった。
『灰羽』の名に妙な執着だけを見せて、ルドガーの名には反応が薄い。その時点で、昔を知る当事者ではない。雇われて動いているだけだろう。
「僕は、またエリックさん狙うかもしれませんよ。ここで殺したほうがよくありませんか」
「いや、わしがこき使えばその前にへばるから構わん。それでも槍を向けるなら、その時はわしが槍を折るだけだ」
アンドンは嫌そうに口元を歪めた。
「…依頼元のことは聞かないんですか?」
「刺客を差し向けられるくらい、よくあることだしな。『灰羽』に敵対したんだ。どうせいずれ死ぬだろう」
「結局『灰羽』ってなんなんですか…」
ぼそっとつぶやいた後、アンドンはそれ以上は何も言わなかった。
危険なのはわかっている。手元に置けば、いつ噛みつかれるかわからない。
それでも、今の『灰羽』には戦える駒が足りない。
忠実な凡人を十人並べるより、首輪つきの猛犬を一匹飼うほうが、よほど先へ進む手助けになるだろう。
僕はアンドンごと飲み込み、『灰羽』を前へ進めることにした。
「よし、明日から厳しくいくぞ。なに給金はしっかり出すから安心しろ」
「えぇー嫌なんですが…」
ルドガーの言葉に露骨に顔をしかめる。
アンドンを殺せば、今夜の危険は消える。だが、雇えば明日からの危険を払う刃になる。
問題は、その刃には餌代がかかることだ。
後始末で金はいくらあっても足りず、里の運営も楽ではない。
ただでさえ金が足りないのに、また一人、厄介で高くつく駒を抱え込んだわけだ。
だが、今さら引き返せるところなど、もうとっくに過ぎていた。
『灰羽』は、こうしてまた動き出した。
けれど、これでようやくスタートラインだ。
オルグを倒し、村を奪い、アンドンを飲み込んだ。
それでも、僕の手元に残っているのは、盗賊団の名前と、少しばかり増えた戦力だけだ。
人狼ゲームは、まだ何ひとつ終わっていない。
誰が人間で、誰が狼なのか。
その前に誰がプレイヤーなのか。
僕はなにも掴めていない。
考えるべきことは、むしろ増えていた。
夜明け前の冷たい風が、見張り櫓の下を吹き抜ける。
砕けた盾の破片が、足元で小さく鳴った。
僕はそれを踏み越え、里へ向かって歩き出す。
次に白い部屋へ戻る時までに、答えを集めなければならない。
そのためには、灰羽を動かす。金を集める。人を使う。使えるものは、敵のものでも何でも使う。
生きて現世へ帰るために。




