08_再来(1)
父が馬車の事故に遭ったことをきっかけに、フィリスがセドリックと出会ってから、一ヶ月ほどが経過した。
あいかわらず、フィリスはスペディング公爵邸に滞在させてもらっている。
父の足の具合は、あれからずいぶんよくなっており、これもセドリックが最適な治療を受けさせてくれているおかげだった。
領地のことはというと、少し見通しが立ってきたようで、父は安心する表情を見せるまでになっていた。
そろそろ自分だけでも領地に戻ってもいいのではと、フィリスは考えはじめていた。
父もこのまま公爵邸にお世話になり続けるのが心苦しいようで、折を見て、前に下宿していた宿屋へ戻ろうと思っている、とフィリスに伝えていた。
でもここを離れるなら、もうセドリックとは会う機会はないということだ。
コッド子爵領は王都から遠く離れていて、通常であれば馬車で五日はかかる。そんな片田舎の領地から、フィリスはこれまでも、これからも、きっと出ることはない。
その上、下位貴族の中でも裕福でないコッド子爵家の娘である自分と、スペディング公爵家の嫡男という高い身分の彼とでは、どこかで出会う確率は限りなく低い。もし奇跡的にばったり出くわす機会があったとしても、あいさつを交わすことすら難しいだろう。
初対面でプロポーズはされたものの、あれ以来、セドリックが同じ言葉をフィリスにかけることはない。
(ようやく我に返って、後悔されているのかもしれないわね、当然だわ……)
ぼんやりと考えてしまう。
しかしいまは、セドリックの執務室で、彼に午後のお茶を淹れている最中だったことを思い出し、急いで考え事を頭から追いやる。
コバルトと金彩で装飾された高級なティーカップに、紅茶を注ぎ入れる。
「……どうぞ」
フィリスは、セドリックの執務机の上にティーカップを置く。
「ああ、ありがとう」
そう言うと、セドリックは手を止めて、微笑んで立ち上がる。
そしてフィリスが執務机に置いたばかりのティーカップを持ち上げると、執務机から離れて、ソファーの前にあるローテーブルの上に移動させる。
そのあとで壁際に歩いていき、サイドボードの上にある紅茶が入っているティーポットを傾けて、もう一組のティーカップに自ら注ぎ入れると、
「どうぞ、一緒に飲んでくれるね?」
と言って、ローテーブルの上に置き、ソファーに座るようフィリスを促す。
フィリスにお茶を淹れるよう提案したセドリックだったが、なぜかこうやって一緒にお茶を飲むのが習慣になってしまった。
これでは仕事とは呼べないと思うフィリスは、いつもセドリックの分しか淹れないのだが、それでも彼は気にする様子もなく、自らフィリスの分を用意してくれるのだ。
淹れてくれたものを無駄にするわけにもいかず、結局こうして、ソファーに座って、いただくことになる。
「今朝のお茶もおいしかったけど、午後のお茶も一段とおいしいね」
セドリックは、ごく自然に、褒め言葉を口にする。
今日に限ったことではなく、彼は紅茶を飲むたびに、いつも欠かさずフィリスを褒めるのだ。
「ありがとうございます……」
フィリスは戸惑いながらも、うれしさを隠すように、そっと目をふせながら答える。
これまで淹れた紅茶の中には、味が薄かったり、渋すぎたりしたときもあったはずなのに、セドリックはいやな顔ひとつせず、いつもおいしいと言って飲んでくれる。
こうして向かい合って、セドリックとお茶を飲むのが日常になっているが、でもそれもいつかは終わりを告げる。
そのことを考えるだけで、フィリスの胸はきゅっと締めつけられるのだった。
その後、お茶を飲み終えると、忙しそうなセドリックに退室を告げたフィリスは、いったん自分の部屋に戻ってきていた。
ソファーに腰を下ろし、天井を見上げる。
別れを告げるなら、早いほうがいい。
それが痛いほどわかっていた。
一緒にいればいるほど、どんどんと彼に惹かれてしまう自分がいる。
(王都に来なければ、よかったかしら……)
父のことがなければ、縁のなかった場所だ。
フィリスの年齢であれば、本来なら王城で開かれる舞踏会に参加し、社交デビューしていて当然だった。しかし、今世は平穏に生きたいと願っているフィリスは、父と母から再三言われている社交デビューをずっと断っている。
それに、そもそも舞踏会に着ていけるドレスを仕立てるお金も、いまのコッド子爵家にはない。
両親は、フィリスがお金のことを心配して舞踏会を断っていると思っているが、それをあえて肯定も否定もしないのは、フィリスだった。
ふと視線を横に向けると、文机の上に一通の手紙が置いてあった。
不思議に思いながら、フィリスは手紙に手を伸ばす。
フィリスに用事があるのならば、口頭で一言伝えれば済む。
唯一、手紙を送ってくれそうなのは、セドリックだが、つい先ほど別れたばかりだ。
フィリスは首を傾げながら、封筒の表裏をたしかめる。
宛名どころか、差出人の名すら書かれていなかった。しかし自分がこの部屋に滞在させてもらっていることは、屋敷の者なら誰でも知っていると思われたため、自分に宛てたものだろうと検討をつける。
ひとまずペーパーナイフで封を切り、中の便箋を取り出して広げる。
書かれている文面に目を落とした瞬間、フィリスは息を呑んだ。
『ミーシェを忘れたか』
ただ一言、そう書かれてあった。
次話に続きます……!