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05_無条件のやさしさ(1)

 フィリスが王都に駆けつけたその日は、父が退院する日でもあった。


 本当ならもう数日は入院したほうがいいとのことだったが、それなりの入院費もかかることから、父は医者に無理を言って、フィリスが到着しなくても、診療所を出るつもりでいたようだった。


 すると、退院のことを聞いたスペディング公爵家のセドリックと名乗った紳士は、馬車で送ると申し出てくれた。


 父は足を骨折しており、杖をついているため、どのみち辻馬車を拾うつもりだった。フィリスは申し訳ない気持ちを抱きながらも、手持ちのお金に余裕がないため、その厚意に甘えることにした。


 セドリックの馬車は、診療所の前に横付けされていた。おそらく主人が戻ってくるのをずっと待っていたのだろう。


 促されるまま、その馬車に乗り込むと、フィリスはすぐさま目をしばたかせる。


 馬車の中といえど、さりげなく施された装飾や光沢のあるビロードのカーテンは高級感があり、厚みのある座椅子は、座る前から最上級の座り心地であることを物語っていた。


(……荷物運搬用の馬車とは、雲泥の差ね)


 フィリスは、心の中で漏らす。


 三日前に領地を出てから、この王都に着くまでは速さを優先したため、荷物運搬用の馬車に便乗してきた。

 当然、乗り心地など皆無の硬い板の上にずっと座っていたので、かなりお尻がこわばっている。


 フィリスの目の前には、セドリックが座り、その横には、セドリックの侍従だと紹介された黒髪の若い男性、ケビンが腰を下ろしている。


「では、王都の邸宅(タウンハウス)までお送りしましょう。どちらへ向かえばよろしいですか」

 セドリックが、父に尋ねる。


 それに対して、父はゆっくりと首を横に振り、


「いえ、じつは我が家の邸宅はずいぶん昔に売り払ってしまいました。お恥ずかしい話ですが、先代当主、この子にとっては祖父にあたりますが、身の丈以上の事業に手を出して散財してしまい、やむなく……」


 父は、恥ずかしい話だと口にはしたものの、現状を受け入れ、虚勢を張っても仕方ないことを理解しているため、顔を上げてはっきりと告げた。


 セドリックのような高位貴族からすれば、王都の邸宅を売り払うなど貴族として恥ずかしくないのかと蔑まれてもおかしくない。


 フィリスは、膝の上でぐっと拳を握りしめる。


 しかし予想に反して、セドリックは不快感を表すことなく、

「そうでしたか……」

 と、むしろ尋ねてしまったことへの罪悪感をにじませ、眉を落として言った。


 そして何やら少し考えるしぐさをしてから、

「では、現在はどちらにご滞在で?」


 父も内心は緊張していたのだろう、セドリックの態度が変わらないことに、ほっとした様子で、

「……それでは、ご面倒でなければ、ミドルストリート四番地へお願いいたします」


 すると、セドリックの隣に座るケビンが馬車の前側にある小窓を開けて、手綱を握る御者に耳打ちをする。おそらく、父が伝えた行き先を告げているのだろう。


 馬車が進路を変えて、しばらく走った頃、

「……フィリス」

 そう言って、父が隣に座るフィリスにそっと目配せする。


 フィリスは、はっとしたあとで、襟高のドレスの首元を少しゆるめる。


 向かいに座るセドリックがぎょっとして目を見開いたが、フィリスは手を止めることなく、ゆるめた襟元から、隠すように首にかけていたネックレスを素早く外し、父に手渡した。


「……すまないね」

 そっと目を伏せるように、父が詫びる。


 フィリスは、左右に小さく首を振って、謝らないで、と答える。


 年代物のネックレスのトップには、小ぶりだが透明度が高く、色の濃淡のコントラストが美しい宝石のガーネットが付いている。

 コッド子爵家に代々受け継がれている家宝だ。

 本来なら、パーティーや大事な記念日に身につける以外は、キャビネットの奥に大事にしまわれている。


 父は、娘のフィリスを王都に呼び寄せる手紙の中で、このネックレスをもってくるようにと書き記していた。

 傾きかけているコッド子爵家には、王都の敷居の高い診療所で診察を受け、入院できるほどの金銭的な余裕はない。

 診察や入院にかかった費用は、目の前のセドリックが支払ってくれたと聞いている。


 父は、何かを告げるようにそっとネックレスをなでたあとで、ひとつ小さく頷くと、


「これは、我が家に代々受け継がれている家宝です。スペディング公子からすれば、さほど価値のないものに映るでしょうが、お支払いくださった入院費用として、こちらをお納めください。不足する分は、必ずお返しいたします」


 深く頭を下げ、ネックレスをのせた両手を掲げるように、セドリックの前に差し出す。


 セドリックは、わずかに眉をしかめた。

 しばしの沈黙が、馬車の中に流れる。


 沈黙を破ったのは、セドリックだった。

 彼は小さく咳払いをしたあとで、手を伸ばし、父の両手をそっと押し戻した。


「私は何も、コッド子爵から家宝を譲り受けるために、入院費用を負担したのではありません。どうか、お気になさらないでください。そもそも我が家の馬車がぶつかったせいで、子爵がおけがを負ったのですから、詫びるべきはこちらでしょう」


 セドリックは、爵位に関係なく年配である父を気遣うような声音で言った。


「しかし……」

 おさまりがつかない表情で、父は口ごもる。


 それもそのはず、馬車の前に不注意で飛び出してしまったのは父で、セドリックはむしろ被害者だ。

 運よく馬車が停まってくれたからよかったものの、最悪の場合、父は命を落としていたかもしれない。


 代わりに、フィリスが口を開く。

「そうです、ご迷惑をおかけしたのは当家です。にもかかわらず、診療所へ運んでくださり、手厚い看病もしていただき、本当に感謝しております」


 フィリスは、本心からそう思っていた。


 片田舎の子爵家の当主である父は、王都に知り合いなどほとんどいない。意識のない状態だったところを、見捨てることなく、助けてもらったのだ。家宝ひとつで返せる恩ではないが、だからといって何もしないわけにはいかない。


 セドリックは、フィリスと子爵である父を交互に見やったあとで、父に向き直ると、

「コッド子爵」

 と改めるように声をかける。


 彼は真剣な表情で、

「先ほど病室で、フィリス嬢にプロポーズしたのは、冗談なんかではありません。私は本気です」


 フィリスは、驚きのあまり、大きく目を見開く。


 父も同じだったようで、言葉を失っている。しかしすぐに、平素見せないほどの険しい表情を見せると、


「……スペディング公子、あなたは公爵家の嫡男で、次期公爵という非常に高いお立場にあり、さらには容姿も大変優れていらっしゃる。それほどの方ならご結婚されるお相手に困ることはないでしょう。

 それなのに、うちのフィリスを望まれるということは、失礼ながら、娘を愛人か何かに据え置きたいお考えなのではないのですか? もしそうならば、私はこの子の父親として、命を投げ打ってでも反対いたします」


 フィリスの父親として、確固たる意志をもって、本来逆らえないはずの家格が上の公爵家にはっきりと告げた。


 セドリックが何事か口を開こうとしたが、そのとき、馬車がガタリッと音を立てて停まった。

 どうやら目的地に到着したようだった。


 父は深く頭を下げると、


「このたびはご迷惑をおかけいたしまして、大変申し訳ありませんでした。入院費用につきましては、後日必ず、公爵邸へお伺いしてお返しいたします。それでは──」


 そう言って、杖に体重をかけて立ち上がり、馬車の扉に手をかけようとする。


 すると、セドリックは弾かれるように手を伸ばし、父の手を押し留める。


「コッド子爵。突然のことで、信じていただけないのは承知しています。しかし、私は心からフィリス嬢を望んでいます。もちろん、たったひとりの妻としてです」


 セドリックは、冷静に言葉を選びながら発する。

 しかしその瞳には、焦りがにじんで見えるのは気のせいだろうか。


「失礼ですが、そのように杖をついた状態での生活はご不便でしょう。それにこちらの地区は若いご令嬢が滞在するには、いささか治安があまりよいとは言えません。もし子爵とフィリス嬢さえよろしければ、我が公爵邸にご滞在されませんか」

 と、やや早口になりながら、一息に言い終える。


 父はそこではじめて、まだ若い娘のフィリスを泊めるには、不安があることに気づいたのだろう。

「それは、しかし……」

 感情を動かされる。


 それを察したセドリックは、矢継ぎ早に、

「どうか遠慮なさらないでください。幸いにも空き部屋はいくらでもありますから。それにいまは、当主である父も母も領地に戻っていますので、屋敷に私ひとりでは寂しいくらいだったんです」

 と言って、万人が惹きつけられるような微笑みを浮かべる。


 そして一瞬、フィリスに熱い視線を向け、再び子爵に向き直ると、

「──どうかフィリス嬢に、私を知ってもらう機会をいただけませんか。人生ではじめてしたプロポーズが、ものの数秒で断られてしまっては、私は永遠に眠れぬ夜を過ごすしかありません」


 困り果てたように、父は、娘のフィリスに目を向ける。


 フィリスは再び、あ然とするしかない。

 父が言ったとおり、由緒あるスペディング公爵家の嫡男で、こんなにも容姿端麗なセドリックなら、結婚相手としてふさわしい家格の良家のご令嬢がいくらでもいるだろう。

 片田舎の傾きかけている子爵家の娘を望む理由は、どこにもない。


 フィリスが絶世の美女であったなら、一目惚れされる可能性もあり、少しはうれしいと思う感情がもてたかもしれないが、フィリスの容姿はというと、焦茶色の髪に、小ぶりな鼻。灰緑色(かいりょくいろ)のやや大きめの瞳は、人によってはかわいらしく映ることもあるかもしれないが、全体としては可もなく不可もなくといった感じだ。


 かわいらしいと褒めてくれるのは、身内の父と母だけだと、フィリスはきちんと理解している。


 だからこそ、セドリックの真意がわからず、困惑するしかない。


 フィリスと父は、どう答えればいいのか、お互いに顔を見合わせる。


 すると、すかさずセドリックは、

「先月、この地区にある宿屋に空き巣が入ったらしいと新聞で読みました。もしあなた方に何かあれば、私は一生後悔するでしょう。こうして知り合えたのも何かの縁です。どうか、私の厚意を受け取ってくださいませんか」


 父はそれでも迷っていたが、大事な娘にもしものことがあればと不安にかられたようで、

「……では、ご厚意に甘えさせていただいてもよろしいでしょうか」


 それを聞いたセドリックはすぐさま、

「ケビン」

 と一言告げる。


 それだけで意図を汲んだ侍従のケビンが、素早く御者に伝える。


 すると馬車は、勢いよく走りはじめ、最初の角を曲がり、来た道を引き返しはじめる。

 これにはフィリスも父も、口を開けて呆然とする。


 それを見たセドリックは、にっこりと微笑んで、

「強引なことをして申し訳ありません。下宿先にある荷物は、あとで使用人をやって、代わりに引き取らせますので」

 と告げた。



次回から、フィリスとセドリックの距離が少しずつ縮まります……!

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