20_しあわせな花嫁(2)
すでに夜も遅い時刻になっていたが、フィリスはあてがわれている部屋の窓際にある椅子に腰かけて、外をぼんやりと眺めていた。
丸テーブルの上に、部屋に備え付けられている小ぶりの真鍮の燭台を置き、一本だけロウソクを灯している。
今日の昼間、父にセドリックとの仲を認めてもらえたこともあり、安堵とよろこびで胸がいっぱいだった。
一度はベッドに入ったものの、眠気が訪れる気配はまるでなく、寝るのを早々に諦めて、いまはこうして外を眺めている。
フィリスの手の中には、使い古されたネクタイピンがある。
父のものだ。
ネクタイピンに付いている小さなサファイアは、フィリスの祖母、つまり父の母が残したイヤリングの宝石を使っているため、父はこの古いネクタイピンをとりわけ大事にしていた。
そしてこれは、父が下宿していた宿屋に落ちていたと、宿屋の娘を装ったミーシェがフィリスに届けたものでもある。
あのあと父に、宿屋の娘が落とし物を届けてくれたと伝えたのだが、父はいつになく神妙な顔をしていた。
『あの子は、落とし物だと言っていたのかい?』
と父に尋ねられ、フィリスは、そうだと答えた。
すると、
『そうか……』
そう一言言ったきり、何やら父は考え込むように黙ってしまう。
ややあってから、
『一度は失くしたものだ。これはお前がもっていなさい』
いつになく強い口調で父は言った。
そして、大事にしていたはずのネクタイピンをフィリスに手渡したのだ。
怪訝に思ってフィリスは理由を尋ねるが、父はそれ以上は教えてくれなかった。
フィリスは、手元に視線を落とす。
いまになって思うことは、フィリスをおびき寄せた昨日、なぜミーシェは、父にお酒を飲ませて眠らせるだけに留めたのだろうということだ。
父は宿屋の客として、ミーシェだけでなく、宿屋の亭主や女将とも顔見知りになっていた上、フィリスの父親だと認識していた。
ミーシェにとって邪魔な存在でしかなかっただろう。
フィリスをあの隠れ家になっていた屋敷におびき寄せ、父の死を連想させるような口ぶりでフィリスの感情をあおる一方で、じつは、父は比較的安全な宿屋でただお酒で眠らされていただけだった。
ずっと考えているが、ミーシェがなぜそんな行動に出たのか、思い当たる理由は何も浮かばなかった。
そのとき、
──コンコン。
控えめに扉を叩く音がした。
フィリスは顔を上げたが、誰かが尋ねて来るにしては遅い時刻ということもあり、空耳かと思ってやり過ごす。
すると、また扉を叩く音がした。
もしかすると、ロウソクの明かりに気がついたメイドがご用聞きにでも来てくれたのだろうかと申し訳ない気持ちになりながら、フィリスは握っていたネクタイピンを丸テーブルの上に置くと、椅子から立ち上がった。
肩にかけているショールを胸の前でかき合わせながら、扉へと歩み寄り、扉を引いて開けると、そっと顔を覗かせる。
「……ごめん、こんな夜遅くに」
扉の向こうの廊下、ランタンを手に立っていたのは、セドリックだった。
いつもはジャケットを隙なく着こなしている姿しか見たことなかったのだが、いまはシャツの上に毛編みのカーディガンを羽織っているだけのくだけた格好だった。湯浴みを終えたばかりなのか、髪の毛はわずかに湿っているようだ。
セドリックは申し訳なさそうに、
「少し、顔を見られたらと思って……、大丈夫だったかな?」
扉の隙間から漏れているロウソクの明かりを目にして、フィリスがまだ起きていると思ったのだろう。
顔を見たいと言われて、フィリスはうれしくなる。
「はい、まだ寝つけそうにもなくて。あ、よかったら、中に入られますか?」
扉を開けて、中へと促す。
セドリックは一瞬驚きをあらわにしたあとで、思案するそぶりを見せ、にっこり笑う。
「そうだね、じゃあ、少しだけお邪魔しようかな」
そう言って、扉の取っ手に手をかけているフィリスの横を通り過ぎる。
すると突然、セドリックはフィリスの肩に手を置き、耳元に顔を近づけると、
「こんな夜遅くに、私以外の男を部屋に入れてはだめだよ?」
ささやくように言われ、フィリスは両手で、彼の唇が近づいたほうの耳を押さえる。
「まさか! そんなことあるわけ──」
フィリスは声をあげる。
セドリックだから、安心して入れたのだ。
しかし彼は、くくっと小さく喉を鳴らして笑い、
「そうだね、でもこうも安心されると、それはそれで……、いや、やめておこう」
何やら言葉を区切る。
フィリスは眉間にしわを寄せる。からかわれていることは、なんとなくわかる。
すると、セドリックは慌てたように、
「ああ、ごめん、からかうつもりはないんだ。だから少しだけ、いさせてもらっても?」
何やら懇願する様子がかわいく思えて、フィリスは小さく頷く。
(大人のセドリックさまをかわいいと思うなんて……)
なんだか失礼なんじゃないかと思えたが、同時に彼のそんな表情を見られたことがたまらなくうれしい。
これからもっともっと知らないことを、知っていけたらいいと思う。
フィリスは、つい先ほどまで自分が座っていた窓際の席、丸テーブルの向かい側にある椅子をセドリックにすすめる。
セドリックは部屋の奥へと足を進める前に、振り返り、廊下に通じる扉を少し引いて隙間を開け、部屋が密室にならないようにするのを忘れなかった。
そんな彼の態度を目にして、フィリスは、自分が大切にされていることをじんわりと実感する。
セドリックは窓際の席に腰をおろしながら、丸テーブルの上にもっていたランタンを置く。
すると、テーブルの上に置かれているネクタイピンが目に入ったようで、
「……これは?」
と、なぜか鋭い視線で尋ねる。
フィリスは思わずネクタイピンを隠しそうになるが、ややあってから、
「……あの、父のものです。でもいまは、わたしが保管するように言われていて」
と正直に答える。
するとセドリックは、
「ああ、子爵のものだったのか」
となぜか安堵するように吐き出す。
フィリスは、セドリックの反応に首を傾げながらも、ふと、先ほど考えていたミーシェのことを彼に聞いてもらえたらと思った。
椅子に腰かけると、テーブルの上のネクタイピンをそっと持ち上げ、
「……じつは父の下宿先にお礼を言いに行った日、宿屋の娘を装っていたミーシェが、落とし物だと言って、これをわたしに手渡したんです。
父にそれを伝えると、父はなぜか『あの子は、落とし物だと言っていたのかい?』て訊いてきたので、わたしはそうだと答えたんですが……。
そうしたら、父は何やら考え込んだあとで、『一度は失くしたものだ。これはお前がもっていなさい』と言ったんです。でもそれ以上は、理由を教えてくれなくて……、だからよけいに気になってしまって……」
「へえ……」
そう言って、セドリックは考え込むしぐさをする。
フィリスは続ける。
「それに昨日、わたしがあの郊外の屋敷におびき寄せられたとき、ミーシェは父に危害を加えたかのような口ぶりだったのに、父は隠れ家でもない宿屋の一室でお酒で眠らされていただけでした……。
もちろん、わたしは父が無事で本当によかったと思っています。でも過去のミーシェなら、邪魔な人間を手にかけることはためらわなかったはずなのに、どうしてだろうって、ふと疑問に思ったんです」
言い終わったあとも、フィリスは父のネクタイピンをじっと見つめる。
しばらく沈黙が続いたあとで、セドリックは、
「……あの女の思考なんかわかりたくもないけど、なんとなく思い当たることならあるかな」
思い当たることへの不快感を少しにじませながらも言った。
フィリスは顔をあげる。
セドリックは微笑んで、
「子爵は、誠実でやさしい方だ。それこそ稀に見るほどにね。あの宿屋にはもう長い間滞在していたとのことだから、それなりに交流があったとしてもおかしくはない。自分の娘と同じくらいの年齢の少女なら、なおさら気にかけたんじゃないのかな」
フィリスは視線を下げる。
たしかに父のことだ。お世話になっている宿屋の娘というだけでなく、自分の娘と同年代の少女にフィリスの面影を重ねて、何かと気にかけたであろうことはすんなり想像できた。
「だからこそ、子爵に危害を加えることにはためらいがあった。ただ……、本当のところは、本人しかわからないけどね」
セドリックはそう付け加える。
フィリスは、ネクタイピンを丸テーブルの上にそっと戻す。
「そうですね……」
そう言って、なんとなく窓の外の暗闇へと目を向ける。
ミーシェはすでに王城の牢屋に移送されている。
これから水面下で、慎重に調査が進められ、事の次第があきらかになれば、いずれ罪を問われるだろう。
どのような処罰が下されるのか、それはフィリスにもわからない。
そのフィリスの横顔を見ながら、セドリックはぽつりと、
「……認めたくないけど、あの女と私は同じだろうね」
とつぶやく。
「……何か言いましたか?」
フィリスが顔を向けて首を傾げるが、セドリックはただ微笑んで応える。
想像の域を出ないが、セドリックはある考えに至っていた。
きっとあの女も、自分と同じで、フィリスの背後に、前々世の第一王女の姿と前世の聖女の姿が見えているはずだ。
だからこそ、フィリスの姿が変わってもわかるのだ。
ではなぜ、自分とあの女にそんなあり得ないことが起きるのか。
考えられるとすれば、それはおそらく、フィリスに対する強い執着心が生み出したものではないのか、セドリックはそう感じていた。
愛と憎しみは紙一重などとよく言われるが、奇しくも、自分とあの女は背中合わせのように同じなのだ。
ただその違いが、愛か憎しみか──。
セドリックは、苦々しげに顔を歪める。
「──セドリックさま?」
セドリックの表情が険しくなっていることに気づいたフィリスは、不安になって彼の名を呼ぶ。
セドリックはすぐに表情を和らげ、
「ちょっと考え事をしていた」
そう言うと、おもむろに立ち上がった。
自分の部屋に帰るのだろうと思ったフィリスは、同じく立ち上がり、見送ろうとする。
しかしセドリックは、
「まだ座っていて」
そう言って、フィリスをその場に押し留める。
セドリックはそのままスタスタと扉へ向かい、隙間を開けていた扉を引くと、廊下に何かを置いていたのだろうか、それを拾い上げるしぐさをする。
フィリスのもとに戻ってくると、手にしたそれをフィリスの前にさっと差し出した。
──それは色とりどりの花束だった。
バラやガーベラ、ダリア、カトレアなど、さまざまな種類の花が贅沢に束ねられている。
ロウソクの淡い光に照らし出された花々は、とても幻想的だった。
フィリスは目を丸くする。
花束はうれしいが、こんな夜遅くに花束をもらえる理由がわからなかった。
するとセドリックは、フィリスの前に静かにひざまずく。
それはまるで、セドリックとの初対面での出来事を思い起こさせた。
フィリスの鼓動がとたんに早くなる。
セドリックは、フィリスを熱い眼差しで見上げ、
「──フィリス、どうか、私と結婚してください」
ゆっくりと告げた。
フィリスは呼吸も忘れて、セドリックを見つめ返す。
ただただうれしかった。
すると、セドリックは、ふっと微笑むと、
「断るのはなしだ。二度も断られたら、今度こそ私は立ち直れない」
冗談めいて言う。
そして花束をフィリスに手渡すと、
「あとこれ、ついさっき届いたんだ」
そう言いながら、カーディガンのポケットから何かを取り出す。
小さな四角いビロードの箱だった。
そのふたをゆっくりと開ける。
箱の中に収められていたのは、指輪だった。
ゆるくカーブした上品なデザインの銀製の指輪。
その指輪の中央には、丸みのある花びらが愛らしく咲くピオニーの花の形に似た、印象的なカットが施されたダイヤモンドが一粒付いている。
セドリックは、フィリスの左手をとると、彼女の薬指にその指輪をはめた。
まるで夢でも見ているようだった。
胸がきゅうっと締めつけられて、言葉が出てこない。
フィリスの瞳に、じわりと涙があふれる。
セドリックは、フィリスの手を少し上げ、その手の甲に静かに口づける。
ゆっくりと視線をフィリスに向けると、
「──返事は?」
柔らかく微笑む。
フィリスは、頬を染めながら、
「──はい」
小さく頷いたのだった──。
次話で、いよいよ完結です……!
ここまで読んでくださった方、ブクマなどでご評価くださった方、本当にありがとうございます!すごく励みにさせていただいています(*´▽`*)
ラストまで見届けていただけるとうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします!