第097話 あなたは間違っていない。でも私は諦めない
アレンは無防備なまま、魔王の刃が届く距離へ入った。
肩から血が落ちる。
夜明けの欠片は下ろしたままだ。
「リュミエラを失って、苦しかったんだな」
ヴァルゼードの刃が喉元へ止まる。
「分かったように言うな」
「分からない。あなたが二十五年抱えたもの全部は、俺には分からない」
分かったと言えば、ヴァルゼードの痛みを自分の言葉で小さくしてしまう。
アレンが知っているのは、焼けた家の匂いと、もう返事をしない親の手と、生き残った朝に食事が一人分余る感覚だけだ。
同じ喪失ではない。
だから同じ答えを強いるのでもない。
アレンは黒い結晶の中の光を見る。
「彼女を焼いた人たちを許せなくてもいい。救われたのに黙った人たちへ絶望したことも、間違いだとは言えない」
「ならば退け」
「退かない」
ヴァルゼードの刃がアレンの喉へ一筋の傷をつけた。
あと指一本押せば終わる。
それでも魔王の手は止まっている。
アレンの言葉を聞きたいからではない。
否定し切れる言葉を探している。
その間にも、背後の黒い輪は広がっていた。
玉座の間の外で、一つ、また一つと人の気配が眠りへ落ちる。
仲間たちは対話を見守っているのではない。
アレンが一歩近づく時間を、全員で買っていた。
仲間たちが、切れかけた共鳴を支えながら声を上げる。
城と一体化した黒い輪は止まっていない。
一人が言葉を渡すたび、別の誰かがその者へ流す光を支える。
ローグは黒刃に居場所を奪われた。
「裏切られたことは消えない。だから全員を先に疑うのが正しいとも思った」
黒い輪から、かつての仲間たちの声が降る。
お前がいなければ失敗しなかった。
戻れば許す。
ローグは声の主を探さない。
フィルへ伸びる線が細くなった時だけ、一歩位置を変える。
過去へ答えるより、今いる相手へ光を渡す方を選んだ。
黒い輪がローグの足元から伸びる。
フィルがその線を踏み、ローグが言葉を終える時間を作った。
フィルは群れを奪われた。
「今も、首輪の音は怖い」
フィルの耳は伏せたままだ。それでもローグの前へ隠れず、隣で震えている。
セラフィーナは信じた国に、人を救う力を奪われた。
「祈りで失われた方は戻りません」
彼女の周囲には、助けが間に合わなかった者たちの姿が浮かぶ。
もっと早く来てくれれば、と責める声もある。
セラフィーナは目を逸らさない。
「間に合わなかったことを、祈りで美しくはいたしません」
一人ずつ名を呼び、同時に今倒れかけたガウェインへ治癒を送る。
死者へ謝り続けるために、生者から手を離さない。
ガウェインは命令で彼女を処刑台へ送り、オズワルドは答えへ間に合わなかった。
二人とも、その過去を正しかったとは言わない。
ガウェインの大剣へ亀裂が走る。オズワルドの杖も先端から崩れていく。
それでも二人は、セラフィーナの言葉を代わりに完成させようとしない。彼女が自分で話し終えるまで、迫る闇だけを受け止める。
ボルドは飢えた故郷を忘れず、ミアの帳簿には救えなかった荷と人の数が残る。
「空腹は綺麗な思い出じゃねえ」
ボルドの腕が黒い輪を支え、筋肉が裂ける。
「だから次の飯を運ぶ。昔の皿を眺め続けるためじゃない」
ミアは血で滑る算盤を押さえ、残った珠だけで流量を測る。
失った数字を帳簿から消さず、今必要な数字も数え続ける。
リリアとエミは父と母を失った。
「会いたいです」
リリアが言う。
「今でも、ずっと」
リリアの声が一度途切れる。
エミは続きを奪わず、姉がもう一度息を吸うまで自分の声で共鳴の拍を守った。
エミが続ける。
誰の喪失も消えない。
誰も、痛みが無意味だったとは言わない。
アレンはヴァルゼードを見る。
「あなたの悲しみは間違っていない」
魔王の目が揺れる。
「絶望したことも、彼女を忘れられないことも間違いじゃない」
アレンはそこで言葉を切る。
「でも、村を焼いたことは間違っている。世界を眠らせることも止める。その悲しみが本物だからって、これから生きる人の未来を奪っていいことにはならない」
「私が止まれば、また誰かが彼女を焼く」
「そうさせないなんて約束はできない」
アレンの返答に、仲間たちも沈黙した。
完全な世界を保証する者はいない。
「また間違える。争う。救えない人もいる。それでも、間違えた時に止める人まで眠らせたくない」
「希望ではなく、失敗する自由を守るのか」
「選び直す自由だ」
「選び直した先で、また同じ火刑を選んだら」
ヴァルゼードの声が低くなる。
「止める」
「止められなかったら」
「次の人が止める」
「誰も立たなかったら」
アレンは答えに詰まった。
絶対に誰かが立つとは言えない。
リュミエラの火刑では、誰も間に合わなかった。
「それでも、立つかもしれない人まで先に眠らせない」
保証ではない。
可能性を残すだけの答えだった。
ヴァルゼードは、その不完全さを笑わなかった。
夜明けの欠片の奥で、閉じていた核が小さく鳴った。
黒い結晶の中の残響が、ヴァルゼードの胸から離れようとする。
「行くな」
魔王が初めて、命令ではなく願う。
白い光は彼の手へ戻らない。
アレンの剣へ向かい、仲間たちの共鳴へ触れた。
火の中で失われた声が、光の震えとして一文を作る。
『あなたは間違っていない。でも私は諦めない』
その言葉はヴァルゼードの罪を許していない。
悲しみに負けなかった者だけを称えてもいない。
絶望するほど愛したことを認め、それでも絶望へ世界を従わせないという境界だった。
ヴァルゼードの顔から怒りが消えた。
残ったのは、置いていかれた一人の男の顔だった。
「また、私ではなく世界を選ぶのか」
光は答えない。
妻の魂そのものではない。
彼女が最後まで手放さなかった選択の残響だ。
「彼女があなたを選ばなかったんじゃない」
アレンは言う。
「あなた一人のものにならなかっただけだ」
ヴァルゼードの周囲で闇が膨らむ。
「同じことだ」
「違う。俺も諦めない」
アレンは下ろしていた剣を、攻撃のためではなく仲間の光を受ける位置へ戻す。
ローグからフィルへ光が渡る。
フィルからエミへ。
仲間全員の共鳴が、聖剣の奥に眠る最後の場所へ届く。
柄の内側で、まだ誰のものでもない光が脈打った。
ヴァルゼードはその脈動を見つめ、自分の胸へ片手を沈めた。
引き抜かれた掌の上に、リュミエラの残響を封じた黒い結晶が現れる。
握る指へ、ゆっくりと力がこもった。




