第098話 決着
ヴァルゼードは、リュミエラの残響を自ら砕いた。
白い光を掴み、黒い結晶ごと握り潰す。
「私を選ばない遺志など、希望ではない」
砕かれた結晶から、治癒の光が細い雨になって降った。
一滴がヴァルゼードの頬へ触れる。裂けた皮膚は閉じない。光が届かなかったのではない。彼自身が、差し出されたものを拒んだのだ。
行き場を失った光は床へ落ち、アレンの足元まで途切れ途切れの道を作る。
砕けた光が消える前に、夜明けの欠片へ一筋だけ流れ込んだ。
残りは闇へ呑まれる。
アレンは手を伸ばした。
全ては掴めない。
指の間を抜けた光の方が多かった。
救えなかったものを追って共鳴を崩しかけ、ローグの短剣が足元へ刺さる。
「今ある分を渡せ」
失われた光を数えるのではなく、残った一筋を次へ送る。
アレンが剣を傾けると、白い光はセラフィーナへ渡り、彼女から城外の治癒術師へ流れた。
魔王城の鐘が、世界の終わりを告げるように鳴った。
空が夜へ固定される。
城外で戦傷者を運んでいた者たちが、一人ずつ膝をつく。
三つの門の跡で荷馬車を守る商人も、解放された避難民も倒れる。
さらに術式は街道を走り、遠くの町で朝を待つ人々まで眠らせ始めた。
王都の治癒院では、夜勤の術師が患者の脈を取ったまま机へ伏した。
東街道沿いの鍛冶場では、朝一番の釘を打とうとした職人の槌が床へ落ちた。
旅回りの小さな舞台では、母親が眠る子を抱いたまま、目を閉じかけている。
英雄も王族も知らない人々の、何でもない朝が奪われていく。
「永眠術式が城外へ拡大しています!」
ミアの声が震える。
仲間同士の共鳴網が、眠りの波を玉座の間で食い止める。
ローグは切れた線を結び、フィルは眠りの匂いを見つける。
セラフィーナは倒れる者へ魂の保護を渡し、ガウェインが彼女への波を受ける。
オズワルドは杖を焼きながら術式を解析する。
ボルドの両腕から血が流れ、ミアの算盤の珠が熱で割れる。
リリアの声は掠れ、エミと三匹の魔獣も足を震わせていた。
一人が止まれば、眠りは世界へ抜ける。
全員が限界を越えて線を維持する。
ヴァルゼードは、その中で最も細い線を選んだ。
エミとハナを繋ぐ光へ闇が噛みつく。
ハナの足が崩れ、エミが抱き上げようとする。
「持つな!」
ローグの声が飛ぶ。
エミは手を止めた。
代わりに自分の肩を差し出し、乗るかどうかをハナへ任せる。
ハナは肩へ乗らず、震える足で一歩進んだ。
チビとクロが左右へ並ぶ。
三匹の歩幅は遅い。それでも自分たちで進んだ光は、闇に噛み切られなかった。
別の場所では、ガウェインの膝が落ちる。
セラフィーナは治癒を一人へ集中させかけ、途中でオズワルドへ半分を渡した。
老人の術式がガウェインの鎧を支え、三人で一本の線を残す。
ローグの指から短剣が滑った。フィルが歯で柄を拾い、彼の手へ押し戻す。
セラフィーナの膝が崩れるより先に、傷だらけのガウェインが肩を差し入れた。
割れた算盤から珠が散る。ミアは床へ転がる珠を数え、ボルドは一つも踏まないよう足場を変えた。
リリアとエミの歌は、もう旋律ではない。互いの息が止まっていないと知らせる、細い呼吸の往復だった。
「アレン、核を!」
ガウェインが叫ぶ。
アレンは夜明けの欠片を構える。
勇者だから、魔王を斬る。
村の仇だから、斬る。
世界を救う使命があるから、斬る。
何度そう念じても、柄の奥の核は開かない。
アレンは一度、力ずくで柄を握り込んだ。
閉じた核へ、仲間全員の光を押し込もうとする。
剣が悲鳴のように鳴った。
共鳴網が中央へ引かれ、ローグたちの足元から光が消えかける。
また同じだった。
最後の一歩だけは自分がやると言いながら、そのために全員の力を奪おうとしている。
アレンは柄を緩めた。
光を戻す。
核はさらに暗くなったが、仲間たちの線は持ち直した。
勝つための剣より先に、生き残るための仲間を選ぶ。
その選択をした後で、剣の奥から初めて小さな熱が返った。
勇者という言葉を握るたび、アレンの心は村を出た朝へ戻った。
帰れる人数を数えず、自分の命を勘定に入れず、死者へ差し出せば正しいと思っていた少年へ。
光は完全な刃を保っている。
だが最後の場所だけが暗い。
「なぜ開かない!」
「また死者のために死のうとしているからです!」
ミアの声が飛ぶ。
アレンは焼けた村を見る。
親父さんの背中。
名前を覚えられていた死者たち。
彼らのために勝たなければならない。
そう思うほど、剣は重くなる。
「こっちを見ろ!」
ローグが怒鳴った。
今ここにいる仲間たちがいる。
フィルは眠りへ引かれながら、ローグの袖を掴んでいる。
セラフィーナは傷ついたガウェインを治し、ガウェインは彼女の前に立つ。
オズワルドは焦げた杖を離さない。
ボルドとミアは互いの崩れる側を支える。
リリアとエミは掠れた声を一つにし、三匹が足元で踏ん張る。
生きている。
失いたくない。
仇のためではない。
勇者の使命でもない。
「皆と、生き残りたい」
生きたいと認めた瞬間、失う恐怖はかえって鮮明になった。
ローグの悪態も、セラフィーナの叱る声も、ボルドが帳簿を破ってミアに怒鳴られる音も、リリアとエミの歌も、二度と聞けなくなるかもしれない。
それでも、恐怖を消してから選ぶのでは遅い。
言葉にした瞬間、剣の重さが消えた。
「勝って、一緒に城を出たい。朝が来るところを見たい」
「それから?」
フィルが、眠りに引かれながら問う。
アレンは答えを用意していなかった。
魔王を倒した後の自分を、考えたことがない。
「飯を食う」
最初に浮かんだのは、それだけだった。
ボルドが苦しい息で笑う。
「任せろ。祝勝会は商会持ちだ!」
「経費上限を決めてからです」
ミアの返事に、掠れた笑いが輪を巡った。
明日を具体的に思い描くほど、剣の核が開いていく。
立派な使命ではない。明日の食事で揉め、怪我を叱られ、次の宿を相談したいという、あまりに人間らしい願いだった。
柄の奥で、最後の光が開き始める。
ヴァルゼードが両腕を広げた。
城、魔物、眠り、憎悪、二十五年分の闇が一点へ集まる。
人の形をしていた輪郭が、夜そのものへ変わる。
「その願いも、失えば憎しみに変わる」
「変わるかもしれない」
アレンは否定しなかった。自分も間違える。恐怖から誰かを縛りたくなる日が来るかもしれない。
だがその時は、ここにいる者たちが止める。止められたなら、また選び直せる。
ヴァルゼードの闇が、初めて呼吸を乱した。
「ならば見せるな」
闇の奥で、ヴァルゼードの声だけが割れた。
「その光を……私に見せるな」
夜明けの欠片の奥で、朝日が開いた。




