第096話 魔王戦・後半
ヴァルゼードは頬の血を見て、笑った。
嬉しいのでも、嘲るのでもない。
長く待っていた敗北が、本当に自分へ届くか試すような笑みだった。
「ならば、城も私も分ける必要はない」
黒衣が床へ溶ける。
玉座、柱、壁、城内に残る全ての古代鉱石がヴァルゼードへ集まり始めた。
不死術式に縛られた魔物の影。
眠りの罠。
首輪の命令。
魔王城そのものが巨大な一つの術式になり、男の背後へ黒い輪を作る。
城外へ続く階段が脈打ち、壁の中から無数の鼓動が聞こえた。
兵として倒れた魔族、命令を拒んで処分された者、実験体として運ばれた人間。ヴァルゼードは敵味方を分けず、役に立つ魂を城の部品へ変えていた。
苦しみを終わらせると言いながら、終わらせる日まで他者の苦しみを燃料にしている。
黒い輪の中から、一人の魔族兵が半身を現した。
腕には処分を示す焼印がある。
「命令を拒んだのか」
ガウェインが問う。
兵は答えられない。口の代わりに術式の線が縫いつけられている。
その背後から、同じ焼印を持つ影が何十人も浮かんだ。
ヴァルゼードが救おうとした世界には、彼の命令を拒む者の居場所もなかった。
「眠りを拒んだ者も、眠らせたのですね」
セラフィーナの問いへ、魔王は答えない。
答えの代わりに黒い輪を閉じ、兵の姿を再び燃料へ戻した。
アレンがその矛盾を口にする前に、黒い輪が全ての声を吸い上げた。
「城の中に、まだ魂がいます!」
セラフィーナが叫ぶ。
アレンは剣を振り切らず、仲間の輪へ光を返す。
奪われかけた魂が白く浮き、黒い輪から外れた。
その一瞬に、ヴァルゼードの指が動く。
共鳴の線が一本ずつ切れた。
ローグとフィルの間へ、裏切りの記憶が壁になる。
セラフィーナは白い王宮へ閉じ込められる。
ボルドとミアの間には、捨てれば速くなる荷の山。
リリアとエミは、母の歌が響く別々の舞台へ離された。
アレンの剣から、全員の光が消える。
線が切れた瞬間、城外の気配まで遠のいた。
門の外で負傷者を運ぶ足音。荷車の車輪。解放された魔物の鳴き声。
戦場が消え、玉座の間だけが世界の全てになる。
孤立させる術は、仲間との距離を作るだけではない。
守ろうとしていた人々を感じられなくし、目の前の勝敗だけへ閉じ込める。
「接続は希望ではない。切れる場所が増えただけだ」
切断のたび、アレンの胸にも痛みが走る。
以前なら自分の力が減ったと感じただろう。今は違う。遠くなった仲間が、別々の場所でまだ自分の答えを選ぼうとしている気配が残っている。
線は切れても、選択まで消えてはいない。
ヴァルゼードの黒い輪が城を覆う。
だが最初に戻ったのは、ローグとフィルだった。
ローグは偽物のフィルを見分けようとしない。
「本物なら、自分で来る」
霧の向こうからフィルの手が伸びる。
「来た」
切れた線が結び直される。
セラフィーナは正しい王宮の幻へ祈らない。
「私は、私が選んだ正義を行います」
紋章のない胸から光が生まれ、ガウェインとオズワルドへ届く。
ボルドは荷を捨てず、山ごと押す。
「重いなら、下から押せ!」
反対側からミアの計算が返る。
「右へ二度です。雑に真っ直ぐ来ないでください!」
荷の壁が割れ、二人の線が戻る。
リリアは母の歌へ自分の声を重ねた。
「泣いても、歌は終わりません」
エミが別の舞台から続きを受け取る。
「お姉ちゃんが泣く間は、私が歌う」
三匹の足音が二つの舞台を繋いだ。
切断された線は、魔王に与えられた道ではない。
皆が一度自分で選んだ答えを辿り、内側から復旧していく。
ヴァルゼードが二度目の切断を放つ。
今度は同じ場所を狙っても切れない。
最初に戻ったローグとフィルの線が、セラフィーナたちを迂回する。
姉妹の歌がボルドとミアの足場を支え、複数の経路が互いの欠損を埋めていた。
一人ずつ孤立させる魔法へ、誰も一人では答えていない。
切れた線の隙間から、城外の音が戻る。
遠くで誰かが別の誰かを呼んでいる。
名も知らない声だった。
共鳴は英雄だけの輪ではない。城で眠らされ、首輪を外され、まだ立ち上がろうとしている者たちへも細く広がっていた。
夜明けの欠片が再び完全な輪郭を得た。
アレンは黒い輪の中心へ入る。
ヴァルゼードの存在理由を否定する言葉が、何重にも降る。
「勇者である理由を否定する」
剣の光が薄れる。
「生き残った理由を否定する」
左手首の火傷が開く。
「救えるという希望を否定する」
それでも仲間同士の線は消えない。
アレン個人の理由だけで繋がっていないからだ。
剣が黒い輪を裂き、魔王の胸へ届く。
そこに核があった。
黒い結晶の中で、白い光が眠っている。
黒い結晶の表面には、細かな傷が無数にある。
ヴァルゼードが何度も取り出しかけ、そのたび閉じ直した跡だった。
手放せなかったのではない。
手放す機会を二十五年間、自分で拒み続けてきた。
リュミエラが火の中から残した、最後の治癒光。
彼女の魂ではない。
それでも、憎まずに治すと選んだ意志の痕跡だった。
ヴァルゼードはそれを不死性の核へ閉じ込め、二十五年間手放さなかった。
このまま斬れば魔王の術式は終わる。
同時に、彼女の残響も消える。
背後では仲間たちの線がまた細くなる。
決断を遅らせるほど、城外へ眠りが広がる。剣を止めることは善意ではなく、別の勝ち筋を今ここで見つける責任だった。
アレンは残響を避け、核を包む支配線だけを探す。
まだ見えない。
フィルの嗅覚でも、オズワルドの術式眼でも区別できない。
支配線は残響へ深く食い込み、斬る側に「まとめて壊すしかない」と思わせる形へ編まれている。
ヴァルゼード自身が、誰にも解けない結び方を選んでいた。
「止まれば、世界が眠るぞ」
魔王が囁く。
「斬れば、彼女が消える。どちらを選んでも、君は誰かを見捨てる」
アレンの剣先が揺れた。
二つしかない選択を示される。
ソルヴェイ村でも、仲間の死の可能性でも、何度も使われた形だった。
アレンは剣先を下げる。
二つから選ぶのではない。
三つ目を探す時間を、仲間と作る。
アレンの刃が止まった。
ヴァルゼードの黒い刃が、無防備な肩へ食い込む。
「情けか」
「違う。あなたが閉じ込めたままの選択まで、壊さない」
「敵の痛みまで守れば、君の仲間が死ぬ」
「だから、あなたは止める。彼女は消さない」
ヴァルゼードは黒い刃を押し込もうとした。
その手が震えている。
「なぜだ」
黒い瞳から静けさが消えた。
「なぜ、失ってなお立てる」
アレンは剣を下ろしたまま、一歩進んだ。
斬るよりも近い距離へ。




