第092話 リュミエラという名の光
リュミエラという名だけで、魔王城の全ての灯が消えた。
闇の中、夜明けの欠片だけが白く残る。
ヴァルゼードはオズワルドを見ていた。
「その名を、どこで知った」
「二十五年前の禁書庫じゃ。白暁戦争の治療記録に、一人だけ敵味方の欄を空白にした研究者がおった」
オズワルドが杖の石突きを床へ置く。
古い記録の文字が空中へ浮かんだ。
白暁戦争。
アルデイン王国と旧ファルナ王国の境界で、朝も夜も区別がつかなくなるほど光魔法が撃ち合われた戦争。
光は癒やしではなく、敵陣を焼く兵器として使われていた。
その中でリュミエラ=アステルだけは、負傷者を所属で分けなかった。
「治療幕へ入った者は、武器を置く。それだけが彼女の決まりじゃった」
記録の光景が玉座の間へ広がる。
灰色の外套を着た若い女が、王国兵の傷を閉じる。
次に旧ファルナの子どもの火傷へ同じ光を注ぐ。
誰かが内通だと叫ぶ。
彼女は振り返らない。
「痛みに所属はありません」
治療幕の外では、両軍の兵が同じ水桶を奪い合っていた。
リュミエラは桶を二つへ分けなかった。
自分の杯で一人ずつ飲ませた。
王国兵の次に旧ファルナ兵が口をつけるたび、周囲の視線が尖る。それでも彼女は杯を洗わない。
「傷が閉じたら、次の人へ場所を譲ってください」
感謝も忠誠も求めなかった。
治った者が再び敵として向かい合うことを知りながら、治療だけは止めなかった。
光景の端に、まだ人間だったヴァルゼードがいる。
細い眼鏡をかけ、治療幕の術式を書き留めていた。
「二人は、光を一人へ集めればいずれ焼き尽くすと考えた。複数の魂が力を返し合う循環なら、誰も器として潰れんとな」
記録の中で、ヴァルゼードが術式の欠陥を指摘する。
「返す相手が拒んだら、循環は止まる」
リュミエラは包帯を結びながら答えた。
「では、別の人へ渡します」
「全員に拒まれたら」
「私が持てる分だけ持って、次の日にまた試します」
理論の議論なのに、ヴァルゼードはそこで笑っていた。
玉座の間に立つ魔王だけが、その記録から目を逸らす。
アレンは剣を見る。
夜明けの欠片に刻まれた輪の紋様と、記録の術式が重なった。
ヴァルゼードの右手がゆっくり上がる。
灯の消えた柱へ黒い線が走り、玉座の間を囲み始めた。
攻撃準備だ。
ローグが目だけで仲間へ知らせる。
オズワルドは語るのを止めない。
黒い線が一本、床から跳ね上がった。
狙いはオズワルドの喉だった。
ガウェインの大剣が割り込み、刃を受ける。受けた場所から金属の色が失われ、剣身が灰へ変わり始めた。
ボルドが横から剣の腹を殴り、黒い線ごと柱へ叩き返す。
「昔話を止めるには、少し細いな!」
「これは昔話ではありません」
セラフィーナが劣化する大剣へ光を流す。
「今も続いている選択の話です」
リリアの歌がオズワルドの呼吸を守る。
老人は一度も言葉を切らなかった。
「戦争末期、王国側の陣が一夜で焼けた。敗走兵は、自分らが助けられた治療幕に裏切り者がおると言い出した」
犯人を必要とした。
敵も治した女は、最も分かりやすかった。
民兵が治療幕へ押し入った。
リュミエラに命を救われた兵士たちも、そこにいた。
誰も彼女を庇わなかった。
庇えば自分も内通者になる。
沈黙が、縄を結んだ。
一人の少年兵だけが前へ出かけた。
治療幕で脚を繋いでもらった兵だった。
隣の男が腕を掴む。
家族まで疑われるぞ、と囁く。
少年兵は一歩を戻した。
その一歩を、ヴァルゼードは火刑台の向こうから見ていた。
人は善意がないから沈黙するのではない。
失うものを示されれば、善意を自分で引っ込める。
だから彼は、選択そのものを信じなくなった。
ヴァルゼードが一歩踏み出す。
「やめろ」
誰へ向けた言葉か分からなかった。
オズワルドは記録を閉じない。
火刑台へ縛られたリュミエラは、群衆を呪わなかった。
「怖がっている人を、憎まないで」
炎が上がる。
記録の中のヴァルゼードが結界へ何度も魔法を撃つ。
間に合わない。
火の中から最後の光が飛び、彼の胸へ入った。
攻撃ではない。
傷ついた手を治す光だった。
玉座の間のヴァルゼードが拳を握る。
柱を走る黒い線が太くなった。
「彼女を焼いた者たちは、翌日には別の内通者を探した」
低い声が続ける。
「彼女に救われた者たちは、自分が沈黙したことを忘れるため、彼女が敵だったと証言した」
「だから人間の自由を奪うのか」
アレンが問う。
「自由は、恐怖のたびに憎悪を選び直す。昨日救った者さえ、今日には火へ投げる」
「彼女は選ばなかった」
「だから死んだ」
ヴァルゼードの声と同時に、天井から黒い槍が降る。
ローグとフィルが軌道を読み、エミの魔獣たちが着弾点から仲間を押し出す。
槍が床へ刺さるたび、記録の光景が一枚ずつ消えた。
魔王は攻撃している。
同時に、自分が覚えている最後の彼女を、自分の手で消そうとしていた。
アレンは夜明けの欠片を横へ構え、最後の一枚へ向かった槍を受ける。
刃から白い火花が散った。
「死んだから、選んだことまで無くなるのか」
ヴァルゼードの次の槍が、初めて狙いを外した。
言葉と同時に、床の黒い線が一周を終えた。
ガウェインが大剣を構え、ボルドが前へ出る。
ミアは柱の数を数え、セラフィーナは防護式を広げる。
リリアの歌が、消えた灯の代わりに呼吸を揃えた。
オズワルドは杖の中から、薄い紙片を取り出す。
「じゃが、彼女の選択は死んどらん」
リュミエラの理論書は全て焼かれたことになっていた。
一冊だけ、治療を受けた旧ファルナの子どもが持ち出した。
写本は礼拝堂から礼拝堂へ渡り、名を削られ、古い光の儀式を読み解く注釈として残った。
その一部がソルヴェイ村へ流れ着き、礼拝堂に眠っていた古代の剣と一緒に保管された。
「夜明けの欠片は、彼女より遥か昔からある。じゃが、欠けた魂と複数の意志で再び目覚める条件へ、彼女は理論から辿り着いとった」
リュミエラが剣を作ったのではない。
誰も意味を読めなくなった聖剣へ、もう一度届く道を見つけていた。
アレンの剣が脈打つ。
かつて制御できず、自分を焼いた光。
仲間の力を全て抱え込み、破裂した光。
それも同じ系統だった。
壊れていたのではない。
一人では完成しない力だった。
オズワルドの紙片へ、リュミエラ自身の筆跡が一行だけ浮かぶ。
光は所有するほど弱くなり、返し合うほど遠くへ届く。
アレンが初めて共鳴を暴走させた時とは、正反対の答えだった。
ヴァルゼードは剣へ手を伸ばす。
憎しみではなく、触れれば失うと知っている人の手だった。
「その光を継ぐ者を」
黒い線が柱から天井へ駆け上がる。
扉も窓も消えた。
闇が玉座の間を完全に閉じる。
彼が憎んでいるのは光ではない。自分の手を離れて、誰かから誰かへ渡っていく光そのものだった。
アレンは悟った。
「私は二度と、世界へ渡さない」




