第091話 最奥の男
玉座にいたのは、怪物ではなかった。
喪服のような黒衣をまとった、一人の男だった。
漆黒の長髪。片方は金、もう片方は底の見えない黒の瞳。
冠も鎧もない。
ヴァルゼード=ノクスは、長い夜を弔い続ける人のように座っていた。
最後の扉を越えた仲間たちが、アレンの背後へ一人ずつ戻る。
誰も武器を下ろさない。
魔王は立たなかった。
「ローグ=クロウ。裏切られた後も、信頼する相手を自分で選んだ」
ローグの短剣がわずかに動く。
「フィル。奪われた群れを、復讐の理由にしなかった」
「私のこと、見るな」
「見てはいない。城へ流れ込んだ選択を読んだだけだ」
魔王の視線が順に移る。
セラフィーナが紋章を返したこと。
ガウェインが命令を破ったこと。
オズワルドが間に合わなかった答えを隠さなかったこと。
ボルドとミアが荷を捨てなかったこと。
リリアとエミが、死者との舞台から自分で帰ったこと。
「見事だった」
その言葉に嘲りはなかった。
「だからこそ惜しい。君たちほどの者でも、明日には争う側へ戻る」
アレンは夜明けの欠片を構えた。
「戻らない」
「君たちは戻らないかもしれない」
ヴァルゼードは静かに訂正する。
「だが世界は君たちだけではない」
玉座の左右に、無数の光景が浮かんだ。
国境で水を奪い合う兵士。
治癒を独占する王宮。
飢えた村から食料を買い叩く商人。
異なる種族を檻へ入れる人間。
聖なる名を掲げた火刑台。
どれも幻ではない。
城へ集められた記録だった。
「私は人間を憎んでいるのではない。苦しみを終わらせたいだけだ」
「皆殺しにしてか」
ローグが問う。
「殺さない」
玉座の間が静まり返る。
「世界中の意思を一つの眠りへ接続する。飢えず、奪わず、命じず、裏切らない。夢の中では、失った者にも会える」
リリアの顔から血の気が引いた。
先ほどまで母と立っていた舞台を思い出したのだ。
「あれを、全世界へ?」
「目覚めなければ、喪失は繰り返されない」
「選べないなら、命じられないだけです」
エミが言った。
足元の三匹が、魔王を警戒して別々の方向へ動く。
「怖いことも、間違うこともなくなる。でも、来てくれたことも分からなくなる」
「結果は同じだ。互いを傷つけない」
「同じじゃない」
ローグが短剣の柄へ指を置く。
「裏切られない人形と、裏切るかもしれない相手をもう一度信じるのは、全く別だ」
ヴァルゼードの左右に浮かぶ記録が切り替わる。
今度は戦争ではない。
妻を殴る男。病人を置き去りにする家族。飢えた隣人へ倉の鍵を隠す老人。眠りが始まれば、彼らも被害者と同じ穏やかな夢を見る。
「選択を残せば、弱い者から犠牲になる」
「だから選択を奪う側へ回るのですか」
セラフィーナが一歩出る。
「本人のためだと言って、本人の声を聞かなくなる。その先を、私は知っています」
魔王の目が、彼女の外した紋章があった胸元へ向いた。
「君を追放した者と私を同じにするか」
「方法が同じだと申し上げています」
玉座の間に、初めて鋭い沈黙が落ちた。
「それは生きていると言いません」
セラフィーナが言う。
「祈りで失われた者は戻らない」
「戻りません。それでも、今生きている人を見捨てる理由にはなりません」
ヴァルゼードは彼女の反論を遮らない。
むしろ、悲しむように聞いていた。
アレンは玉座へ一歩近づく。
「ソルヴェイ村を焼いた軍も、苦しみを終わらせるためだったのか」
「そうだ」
即答だった。
「東部の侵攻で死んだ者は、確認できるだけで一万二千七百四十一人。侵攻を行わず、王国と魔族領の戦争が続いた場合、十年で予測される死者は二十八万を超える」
「だから、親父さんたちを殺していいのか」
「よくはない」
ヴァルゼードは初めて、玉座の肘掛けから手を離した。
「必要だったとも言わない。私が選び、私が殺した。その罪を未来の平穏と交換する」
アレンは剣を握る手へ力を込める。
怒鳴れば簡単だった。
相手が笑ってくれれば、憎むだけで済んだ。
だが魔王は犠牲を否定しない。
正義とも呼ばない。
ただ、これから死ぬ数を減らすために、今いる人間を数字へ変えていた。
「数字の中に、名前はあるのか」
「記録に残せた者は、全員分ある」
「親父さんの名は」
ヴァルゼードは答えた。
続けて、生年月日と職業、死亡した場所を告げる。
見張り台のトマも、マルタ婆さんも、リオの母親も。
城の記録は正確だった。
正確すぎて、誰の暮らしも同じ幅の文字へ削られていた。
ボルドが歯を食いしばる。
「腹を空かせた子どもを、人数で数えることはある」
ミアが隣で帳簿を開く。
「ですが、その数字は必要な荷を届けるために使います。諦める人数を決めるためではありません」
「全員へ届かない時はどうする」
「届かなかった名前を残します。次に届かせるために」
ヴァルゼードは答えず、アレンだけを見た。
城へ集めた死者の記録から、一度も会ったことのない男の名を正確に。
アレンの胸へ、怒りとは違う冷たさが入る。
「名を覚えていれば、奪っていいわけじゃない」
「分かっている」
「だったら、その名を呼ぶ時に何が浮かぶ」
ヴァルゼードは答えなかった。
記録には年齢も家族も最期の場所もあるのだろう。だが親父さんが固いパンの大きい方を渡したことも、畑の土を指で砕く癖も、アレンの額を弾いた強さも知らない。
名前を保存することと、その人が生きた時間を数えることは違う。
「分かってない」
アレンが夜明けの欠片を持ち上げた。
白銀の刃に、仲間たちの光が薄く走る。
光は強くない。
それでも一色ではなかった。
互いに混ざり切らず、それぞれの選択を残したまま刃の内側を巡っている。
その瞬間だけ、ヴァルゼードの呼吸が止まった。
玉座の背後に浮かんでいた死者の記録が乱れ、一人分ずつ整列していた光景が初めて重なった。
「その剣を、どこで手に入れた」
静かな声が初めて速くなる。
「村の礼拝堂だ」
魔王は立ち上がった。
瞳に映っているのはアレンではない。
剣の内側で明滅する光だった。
「君はまだ失うことの意味を知らない」
「知ってる」
「愛する者を失えば、君も私と同じになる」
アレンの左手首の火傷が痛んだ。
オズワルドが剣と魔王を見比べる。
老人の顔から、いつもの皮肉が消えていた。
「彼が失った者の名を、わしは知っておる」
ヴァルゼードの黒い瞳が、オズワルドへ向く。
「リュミエラ=アステルじゃ」




