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第090話 城内の試練

アレンが目を開けると、親父さんが朝食を作っていた。


焼ける前のソルヴェイ村だった。


窓の外では井戸の桶が軋み、見張り台のトマがあくびをしている。


卓上には固いパンと薄い豆のスープが二人分。


「起きたなら水を汲んでこい」


親父さんは鍋から目を離さずに言った。


アレンの手から、夜明けの欠片が落ちた。


床へ触れる前に消える。


傷も鎧もなくなっていた。


「親父さん」


「なんだ」


「村は」


「見れば分かるだろ。何も起きちゃいない」


鐘は鳴らない。


東の森も静かだった。


アレンは井戸へ水を汲みに出た。


滑車は昨日油を差した時と同じ音を立て、リオは逃げた鶏を追っている。マルタ婆さんは礼拝堂の空の花瓶へ水を入れていた。


誰もアレンを勇者と呼ばない。


誰も剣を持たせない。


左手首には火傷がなく、指でなぞっても痛みは返らなかった。


それだけで、膝から力が抜けそうになる。


村を一周して家へ戻ると、鍋のスープはまだ湯気を立てていた。時間が進んでいないことへ気づいても、アレンはすぐには問いただせなかった。


進まない朝を、もう少しだけ信じたかった。


ここに残れば、誰も死なない。


その言葉が、親父さんの声ではない場所から聞こえた。


幻の向こうで、仲間たちもそれぞれの救いに囚われていた。


ローグの前では、黒刃の仲間が誰も裏切らなかった。


ダリウスは報告書を読み、北回廊の進路を変えている。


「お前の判断が必要だ」


そう言って地図の隣を空けた。


ローグは椅子へ座りかけた。


だが卓上に、フィルのために買った髪留めがない。


「悪い。待たせてる奴がいる」


地図を短剣で裂く。


フィルは、首輪をつけられる前の群れにいた。


母狼も兄弟も生きている。人の言葉を覚えず、血の匂いも知らずに済む森だった。


その森の外から、ローグの声がした。


「途中で置いていかない」


フィルは生きている群れへ額を寄せ、それから声のする方を選んだ。


セラフィーナの王宮では、治癒を一人へ集める制度が最初から存在しなかった。


ガウェインは命令書を持たず、オズワルドは研究記録を隠さない。


誰も彼女を聖女と呼ばず、名で呼ぶ。


完璧に正しい王宮だった。


「ここに残れば、過ちは起きません」


幻の声へ、セラフィーナは首を振る。


「過ちが起きない場所では、選び直すこともできません」


自分の手で扉を開いた。


ガウェインには、全ての命令が正しく、命令どおりに動けば必ず誰かを救える国が与えられた。


だが命令書のどこにも、セラフィーナ本人の選択は書かれていない。


彼は王印を大剣で断った。


オズワルドの机には、間に合わなかった研究の完成形が積まれていた。


犠牲者の出ない答えだけがある。代わりに、救えなかった者たちの名が一つもない。


「失敗を消した答えなぞ、次へ渡せんわい」


老人は完成した本を閉じた。


ボルドの故郷には、空の皿が一枚もなかった。


倉には麦が積まれ、子どもたちは腹を空かせず走っている。


ミアが大きな食卓の端で帳簿を閉じた。


「もう運ぶ必要はありません」


ボルドは夢の中の皿を見た。


「お前の帳簿が、そんな雑なこと言うかよ」


食卓を持ち上げると、その下に出口があった。


ミアの帳簿には、損失も遅延も空腹もなかった。


彼女は美しく並んだ零を一つずつ消す。


「現実の数字は、こんなに従順ではありません」


最後に残った赤字の向こうから、ボルドの笑い声が聞こえた。


リリアとエミは、両親と舞台に立っていた。


客席は満員だった。


セレナの歌に父の楽器が重なり、姉妹の声が続く。


終わらないはずの歌だった。


エミは母の手を握ったまま、泣いていた。


「もう少しだけ」


リリアも答えられない。


客席から拍手が上がる。


一曲終わるたび、母は次の曲を歌い始めた。父も楽器を置かない。


舞台袖には出口がある。けれど歌が終わらなければ、別れを選ばずに済む。


「お姉ちゃん」


「分かってる」


リリアの返事は、歌より掠れていた。


「分かってるけど、今度こそ最後まで聞きたい」


エミも同じだった。


母を失った夜には聞けなかった最後の一節が来る。そう思うたび、曲は少しだけ長くなった。


幻は願いを叶えているのではない。


別れを決める瞬間だけを、永遠に先延ばしにしていた。


母の歌を最後まで聞きたい。


父ともう一度だけ同じ舞台に立ちたい。


その願いは罠に作られたものではなく、今も二人の中にある本物だった。


舞台袖の暗闇から、チビの鳴き声がした。


次にクロ。床を掻くハナの音。


そしてフィルの声がする。


「自分で来るって、言った」


エミは母の手を離した。


「うん。だから、自分で帰る」


リリアは最後の一節を現実の仲間へ向けて歌った。


歌は幻の舞台を割り、離されていた声を繋ぐ。


ローグがフィルの名を呼ぶ。


フィルがローグの名を返す。


ガウェインとオズワルドがセラフィーナを呼ぶ。


ミアがボルドへ、食料の残量を怒鳴る。


一人ずつ、完璧な過去から不完全な今へ戻っていく。


戻った者たちは、白い何もない空間へ集められた。


互いの姿は見える。声も届く。


中央に一つだけ、閉じた扉がある。


その向こうから、食器の触れ合う小さな音がした。


ローグが扉の隙間へ短剣を差し込む。刃は手応えもなく消えた。


セラフィーナの祈りも、オズワルドの術式も通らない。


「壊す扉ではない」


ミアが表面へ触れる。


「内側からしか、開きません」


彼らにできるのは名前を呼ぶことだけだった。


だがアレンの村には、誰の声も届かなかった。


親父さんがパンを二つに割る。


大きい方をアレンの皿へ置いた。


いつもと同じだった。


だからこそ、捨てられない。


「今日は森へ行かなくていい」


「どうして」


「お前がここにいれば、村は焼けない」


親父さんが初めて顔を上げた。


その目だけが、あの日の炎を映している。


「お前が勇者になろうとしなければ、皆は死ななかった」


アレンは息ができなくなった。


村人たちが窓の外へ集まる。


焼けた顔で、焼ける前の服を着ていた。


「お前が代わりに死ねばよかった」


親父さんが言う。


窓の外の村人たちも口を動かした。


声は全て親父さんと同じだった。


助けるのが遅かった。


勇者なら最初から分かっていたはずだ。


お前だけが生き残った。


アレンの中で何度も繰り返してきた言葉を、村の顔が代わりに読み上げている。


それが罠の声だと分かるほど、否定できなくなった。


アレンは膝をついた。


否定する声を探した。


仲間の声は、扉の向こうから聞こえている。


だが幻は割れない。


声はアレンを立たせようとする。


それでも最後の一歩だけは、誰かに代わってもらえなかった。


親父さんが手を差し出す。


「残れ。そうすれば、朝は何度でもやり直せる」


アレンはその手を取ろうとした。


指先が触れる寸前、卓上の二人分の食事を見た。


親父さんはいつも、大きい方をくれた。


死ねとは、一度も言わなかった。


「あなたは、親父さんじゃない」


「お前がそう思いたいだけだ」


「そうかもしれない」


アレンは震える足で立つ。


罪が消えたわけではない。


村が戻らないことも、自分だけが生き残ったことも変わらない。


それでも親父さんが分けてくれた命を、自分で捨てることだけは違う。


「それでも俺は、生きてここを出る」


朝の村へ亀裂が走った。


炎ではなく、仲間たちの声が差し込む。


親父さんの顔が一瞬だけ歪む。


差し出していた手が黒い霧へ変わり、その奥から本物の記憶が戻った。


火の中で胸を押した手。


生きろ、と言った声。


幻が作れなかったのは、アレンを責める親父さんではない。


自分の死より、残される息子の二歩目を選んだ人だった。


アレンが一歩踏み出すと、最後の扉が開いた。


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