第089話 魔王城突入
魔王城の壁一面に、黒い鉄輪が埋め込まれていた。
床から天井まで、隙間なく。
その一つ一つが、フィルの群れを滅ぼした首輪と同じ形をしている。
鉄輪の間には、爪で削ったような細い傷が残っていた。
人の高さにあるものも、四つ足の獣しか届かない低い位置にあるものもある。城壁へ埋め込まれる前、ここで何かが首輪を外そうともがいた跡だった。
フィルは最も低い傷へ指を置いた。
「知ってる匂い。群れじゃない。でも、同じ怖さ」
ローグは先を急げと言わず、フィルが手を離すまで待った。
「止まれ」
ローグの声と同時に、背後の城門が閉じた。
鉄輪が一斉に鳴る。
金属音ではない。
首を締められた獣たちの声だった。
回廊の奥でも同じ音が応え、城全体が巨大な首輪として閉じていく。
フィルが両耳を押さえた。
白い回廊へ霧があふれる。霧の中から、黒い首輪をつけた狼が何十頭も現れた。
痩せた体。濁った目。群れの仲間だったものの匂い。
「偽物だ」
ローグは短剣を抜く。
一頭を斬ると、黒い煙になって消えた。
だが壁の鉄輪が鳴り、二頭に増える。
ボルドの前には、空の皿を抱えた子どもたちが現れた。
セラフィーナの前では、祈りを求める群衆が焼けた腕を伸ばす。
鉄輪は侵入者の恐怖を読み、その形を魔物へ変えていた。
リリアの耳には、燃えた舞台の裏から母の歌が聞こえた。
エミの足元では、首輪をつけられたチビ、クロ、ハナが、助けを求める目で彼女を見上げている。
幻だと分かっていても、誰もすぐには動けなかった。
恐怖を見せられているのではない。
自分なら必ず手を伸ばす形を選ばれている。
アレンは夜明けの欠片を構えた。
「まとめて道を開く」
「斬れば増えるぞ」
ローグが止める。
止めるより先に、剣先が一つの鉄輪へ触れた。
輪の内側から、子どもの泣き声がした。
アレンは反射的に剣を引く。
その迷いを読んだように、壁の別の場所から新しい鉄輪が押し出された。輪には、ソルヴェイ村の見張り鐘と同じ三本の傷が刻まれている。
「壊す相手まで、こっちに選ばせる気か」
剣を振れば、閉じ込められたものまで傷つけたと思わせる。振らなければ、恐怖が増える。
力で道を開く者ほど深く絡め取る罠だった。
フィルの前で、狼たちが輪を狭めていた。
「俺が選ぶな」
ローグはフィルへ尋ねた。
「戻るか。進むか。それとも、別の道を探すか」
フィルは震えたまま狼たちを見る。
やがて、耳から手を離した。
「進む」
「分かった」
「でも、斬らない。あの声を止める」
ローグは短剣を逆手に持ち替えた。
「なら、仕組みを探す」
エミが壁際へ走った。
鉄輪の下には、使役首輪と同じ三本の溝がある。リリアが荷袋からセレナの契約印の欠片を出すと、溝の黒い光が同じ周期で脈打った。
「首輪も、母さんの契約印も、この城の罠も同じ道を使ってる」
オズワルドが杖で床を叩く。
「中央から命令を送り、恐怖を吸い上げ、形にして返す。支配術式の原型じゃ」
「中央はどこです」
ミアが脈動の間隔を数える。
「一つではありません。壁の鉄輪が順番に中継しています。十二拍で一周です」
セラフィーナはフィルと三匹の魔獣へ薄い保護膜を張った。
「感覚を消す術ではありません。苦しくなったら、すぐ言ってください」
エミはチビ、クロ、ハナの前へ膝をついた。
三匹の首には何もない。
「命令はしない。お願いがあるの」
チビが首を傾げる。
「壁の黒い匂いを追ってほしい。でも、どの道を行くか、いつ止まるか、戻るかは自分で決めて」
クロが先に走った。
チビは壁を駆け上がり、ハナは床下から響く脈を前足で探る。
三匹は同じ道を選ばない。
だから鉄輪は、一つの命令として動きを読めなかった。
フィルも霧へ入った。
「私も、自分で行く」
ローグは追わず、別の鉄輪へ短剣を差し込んだ。
「十二拍目を教えろ」
「今、九です」
ミアが答える。
オズワルドが契約印を床の溝へ合わせる。
セラフィーナは鉄輪に閉じ込められた魂の悲鳴だけを保護する。
アレンの剣から伸びた光が、皆の位置を結ぶ。
十。
十一。
三匹とフィルが、別々の中継点へ同時に触れた。
「今です!」
エミは使役首輪の欠片を中央の溝へ押し込む。
黒い光が腕へ這い上がった。
命令する者を探し、エミの声を待つ。
黒い光が喉へ届く。
言葉を発すれば、それが何であれ命令として四匹の中へ流れ込む。
エミは口を閉じた。
だが黙れば、鉄輪が送り込む恐怖だけが命令になる。チビの足が止まり、クロが壁から滑り、ハナが床へ爪を立てた。
「エミ」
リリアが名を呼ぶ。
助言ではない。姉の答えを押しつける声でもない。
一人で命令する者にされかけた妹へ、ここに戻る道だけを渡す声だった。
フィルが別の中継点から叫ぶ。
「聞く。命令じゃなくて、聞く!」
エミは四匹を見る。
怯えている。苦しんでいる。それでも誰も、彼女から逃げようとはしていなかった。
エミは息を吸った。
「自由に動いて」
術式が一度、命令としてその言葉を飲み込んだ。
だがその言葉が選択を作ったのではない。
回路へ先に流れ込んだのは、四匹がすでに選んでいた四つの動きだった。
中央へ集まるはずの線が、外へ向かって枝分かれする。
「行きたい方へ行って。嫌なら止まって。帰りたい時に帰ってきて!」
鉄輪が次々に壁から外れた。
落ちた輪は床へ触れる前に割れ、中から白い光が小さな獣の形になって走り出した。
狼だけではない。鳥、馬、人の影までいる。
城が長い時間をかけて奪い、命令の材料へ変えてきた選択の残りだった。
現れていた魔物が煙へ戻る。
最後に残った狼へ、フィルが近づいた。
「もう、走っていい」
狼は首輪を落とし、白い霧になった。
回廊の奥で、巨大な扉が開く。
チビ、クロ、ハナがエミのところへ戻った。
エミは三匹を抱きしめる。
「ありがとう」
「命令の結果ではないな」
ガウェインが言う。
「うん。来てくれた結果」
アレンたちは停止した鉄輪の間を進む。
今度は誰も先頭へ急がなかった。
ローグが足場を見て、ミアが脈の残りを数え、エミと魔獣たちが互いに進めることを確かめる。その一つ一つを待ってから、アレンも歩いた。
最奥の扉には取っ手が一つしかなかった。
仲間と来た者へ、一人で開けさせるための取っ手だった。
アレンが手をかける。
扉は音もなく開いた。
扉の向こうへ踏み込んだのは、アレン一人だった。
振り返っても、仲間の姿はどこにもなかった。




