第088話 グリード戦・決着
「荷馬車ごと、あの口へ突っ込む!」
ボルドの宣言に、商会員たちの手が止まった。
空を覆う顎の内側では、赤い刻印が何重にも回っている。
落ちた武器も、魔物の死骸も、地面から吸い上げた魔力も、触れた端から力へ変えられていた。
「話を聞いていましたか」
ミアが静かに尋ねる。
「全部聞いた! 捨てずに運ぶ!」
「敵の腹へですか」
「通り道にする!」
ボルドは巨大な口の向こう、赤い門を指した。
「正面から抜ける!」
無謀だった。
だがミアは即座に却下しなかった。
グリードの吸収は、触れた瞬間に完了しない。
初戦でも、力を喰らい刻印へ流すまで三呼吸あった。
巨大化した今は顎が増え、吸収する量も増えている。
外から攻撃すれば、全ての口が力を分けて喰らう。
内側の一箇所へ、処理できない力を同時に流せば。
ミアは斜面と荷馬車を見た。
荷の総重量。
車輪の直径。
赤い門までの傾斜。
ボルドが押し続けられる距離。
グリードの顎が閉じる時間。
算盤の珠が激しく鳴る。
「乗っている方を全員降ろします」
「荷は?」
「一つも降ろしません」
ミアは顔を上げた。
「通せます。ただし、荷馬車を投げないでください。最後まで押してください」
ボルドは一瞬、目を逸らした。
投げる方が速い。
自分一人の力で決着をつけた気にもなれる。
だが投げれば、荷を結んだ者の仕事も、車軸を直した者の仕事も、盾を並べた者の仕事も途中で切れる。
最後まで押すとは、全員の準備を最後まで使い切ることだった。
「分かった。投げねえ」
その返事は、戦闘中のボルドにしては珍しく静かだった。
「得意だ!」
「投げる方が得意でしょう」
「今日は押す!」
避難民と負傷者を、先に退避した荷馬車へ移す。
歩ける者は石壁の陰へ移動した。
誰も遠くへ逃げなかった。
ミアが作戦を伝えると、全員が自分にできる準備を始める。
鍛冶師は歪んだ車軸へ添え木を打つ。
商会員は荷崩れを防ぐ縄を二重にする。
負傷した兵士たちは盾を並べ、突撃路へ飛ぶ瓦礫を防ぐ。
母親は空になった水樽から革帯を外し、薬箱を固定した。
「証拠箱は中央へ」
ミアは使役首輪を一つずつ取り出す。
首輪の内側に埋まる黒い鉱石が、グリードの刻印と同じ拍で明滅していた。
飢餓術式も、地雷も、首輪も、古代鉱石へ命令を流す同じ仕組みから作られている。
「首輪を荷台の鉄枠へ等間隔で固定します」
「食わせるのか」
「命令を受け取る石を、命令を出す術式の内側へ入れます」
ミアは首輪を繋ぐ鎖の長さを測る。
「吸収の拍に合わせて全てを共振させれば、命令の流れを内側から乱せる可能性があります」
「可能性か!」
「計算上、勝率は四割です」
「十分だ!」
「残り六割を、皆で埋めます」
ミアはそこで、初めて周囲へ頭を下げた。
「お願いします。私の計算だけでは足りません」
商会員たちが顔を見合わせる。
いつもなら、ミアは不足を予備費や代替案で埋める。
今回は違う。
人の手と判断を、最初から必要な値として数えている。
鍛冶師が笑った。
「ようやく帳簿に俺たちの腕が載ったか」
「高くつけてください」
「成功報酬です」
緊張の中に、短い笑いが走った。
ボルドは周囲を見る。
車輪を直す者。
縄を結ぶ者。
盾を持つ者。
道から石を除く者。
自分一人の力だけでは、荷馬車は敵の口へ届かない。
「全員、離れろ!」
グリードの顎が迫る。
「弱者の手を借りて、強者を名乗るか」
「俺一人を強者にする必要はねえ!」
ボルドは荷馬車の後ろへ肩を当てた。
「全員で進めりゃ、それが強さだ!」
ミアが青い旗を上げる。
「押してください!」
ボルドの脚が石畳へ沈む。
荷馬車が動き出した。
最初の一歩は遅い。
二歩目で車輪が回る。
三歩目から斜面が速度を加えた。
ボルドは手を離さない。
投げれば、自分の力だけで速くできる。
押し続ければ、車輪、傾斜、補強した軸、荷を結んだ人々の仕事が全て速度になる。
「右へ半歩!」
ミアが叫ぶ。
ボルドが車体をずらす。
左から閉じた顎を紙一重で避ける。
盾列が飛んだ瓦礫を弾く。
商会員が後方の縄を引き、車体の揺れを戻す。
誰か一人が欠ければ、薬箱が落ち、車輪が折れ、軌道が外れる。
全員の仕事が一本の突撃路を作っていた。
正面の顎が開く。
闇の奥で、飢餓術式の核が赤く光る。
「今だ!」
ボルドは荷馬車を押したまま、口の中へ飛び込んだ。
顎が幌を挟む。
木材が軋み、薬瓶が鳴った。
一呼吸。
積荷から魔力が吸われ始める。
荷台の外で、商会員たちが縄を離さなかった。
口の中へ引きずり込まれそうになりながら、車体の揺れを外から戻す。
盾列は瓦礫を受け続け、腕の痺れで何人も膝をついた。
ミアは算盤を握る手を血が滲むほど締める。
自分の合図が一呼吸ずれれば、荷馬車ごと喰われる。
それでも誰も、途中で自分の役目を投げなかった。
二呼吸。
首輪の鉱石が赤く変わる。
三呼吸目の直前、ミアが算盤を投げた。
木枠が荷台から伸びた鎖の留め具へ当たる。
十二の首輪が同時に鉄枠へ触れた。
「ボルド、下から一度!」
ボルドは荷馬車を投げない。
両手で押したまま、右脚を地面へ叩き込む。
衝撃が車輪から車軸、鉄枠、十二の首輪へ同時に走った。
黒い鉱石が同じ拍で光る。
グリードの内側から、飢餓術式へ逆向きの波が返った。
「何をした!」
巨大な顎が閉じ切らず、痙攣する。
吸い込んだ力が行き先を失い、幾つもの口へ逆流した。
荷馬車を噛んでいた顎が開く。
「商売道具を、返せ!」
ボルドは最後の一押しを加えた。
荷馬車が闇を突き抜け、赤い門の前へ飛び出す。
車輪は二つとも残っている。
幌は裂けたが、固定された荷箱は一つも落ちなかった。
巨大な外殻の胸が内側から割れる。
赤い刻印の奥に、人の形をしたグリードが見えた。
ボルドは止まった荷馬車から手を離し、亀裂へ腕を突っ込む。
「出てこい!」
グリードの本体を掴み、巨大な殻から引きずり出した。
二人の巨体が石畳を転がる。
グリードが大斧を探す。
ボルドは先に立ち、拳を構えた。
背後には、守り切った荷馬車がある。
そのさらに後ろには、準備を終えた全員が立っていた。
「これが俺の強さだ」
拳を振り抜く。
グリードの身体が赤い門へ叩きつけられた。
門へ亀裂が走る。
その拳に、前ほどの派手な音はなかった。
力の大半は、荷馬車を押し切るために使った後だった。
それでも十分だった。
グリードを倒したのは、最後の一撃だけではない。
捨てなかった荷と、下がらなかった人々と、計算を信じた全員の仕事が、すでに彼の術式を内側から壊していた。
「お前一人の力ではない」
グリードが血を吐きながら言う。
「最初から、そう言ってるだろうが!」
ボルドは荷馬車を指す。
「押した奴、直した奴、道を作った奴、計算した奴! 腹減らして帰ってくる奴まで全部だ!」
グリードは起き上がろうとする。
だが飢餓術式はもう何も吸わない。
弱者と呼んだ者たちが、奪われるだけの場所にいない。
自分の役目を選び、強者の力を進む方向へ変えた。
「理屈では、重い荷を捨てた方が速い」
グリードが呟く。
「おう」
「弱い者を抱えれば、強い者から沈む」
「沈みそうなら、下から押してもらえ」
グリードは荷馬車の周囲を見る。
「意志が、理屈を動かしたというのか」
「理屈を考えたのはミアだ!」
「そこはあなたも考えてください」
遠くからミアの声が飛ぶ。
ボルドが笑う。
グリードの口元も、わずかに動いた。
「……負けた。理屈ではなく、意志で」
赤い門が背後から崩れた。
同時に、左の霧門と中央の白い門も崩れ落ちる。
三つに分かれていた道が、一本の中央路へ戻った。
崩れる門の向こうで、雲を貫く魔王城の全貌が現れた。




