第009話 嘘の匂い
少女は三度置いていっても、四度目にはローグの後ろを歩いていた。
一度目は廃倉庫。
二度目は共同炊事場。
三度目は治療師の家の前。
廃倉庫では、出口を示して自分が先に立ち去った。角を二つ曲がったところで、霧の向こうから足音が増えた。
共同炊事場では、女主人へ事情を話して預けようとした。少女は人の多さに怯え、鍋をひっくり返しかけて消えた。
治療師の家では、傷だけでも診せようと銀貨を置いた。扉が開き、薬の匂いがした瞬間、少女は屋根の上まで逃げた。
どこにも居場所を選ばないくせに、ローグの後ろからだけは離れない。
ローグはわざと人混みへ入った。
魚市場の狭い通路を抜け、荷車の間を曲がり、倉庫街の梯子を上る。普通の子どもなら、二つ目の角で見失う道だ。
だが屋根へ出ると、向かいの煙突の陰から銀色の髪が現れた。
「尾行の才能はあるな」
少女は褒められたと分からず、警戒して歯を見せる。
「噛むな。仕事を紹介しただけだ」
「どういう仕組みだ」
ローグが振り返ると、少女も止まる。
十歩の距離。近づけば下がり、歩けばついてくる。追い払うために路地を三度曲がっても、白い霧と一緒に現れた。
「俺は飼い主じゃないぞ」
少女は首をかしげた。
足の傷は治療師に見せる前に自分で舐め、差し出された薬を見ると霧へ隠れた。人間を信用していないらしい。
それは賢明だ、とローグは思う。
自分も三日前、人間を信用するのをやめたばかりだ。
違うのは、ローグには宿へ入り、金を払い、武器を持つ自由があることだ。
少女は人の姿をしていても、誰かに見つかれば商品として扱われる。
同じ人間不信だと思うのは、少し傲慢だった。
ただし少女の警戒は、ローグよりずっと身体へ染みついていた。大きな声がすれば肩をすくめ、荷馬車の鎖が鳴れば路地へ逃げる。兵士の外套を見ると、霧が勝手に溢れた。
「好きにしろ。ただし、俺は面倒だからお前を置いていく」
少女の鼻が小さく動いた。
「うそ」
ローグは瞬きをした。
罠の中で唸り声しか上げなかった少女が、初めて人の言葉を口にした。
「話せるのか」
「かなしい、匂い」
胸の奥を細い刃で突かれたような気がした。
「鼻が悪いな」
「うそ」
「便利な言葉を覚えたもんだ」
少女は首を振る。
「言葉、前から。使わない」
「なぜ」
「人間、呼ぶ。捕まえる」
短い言葉の隙間から、罠にかかる前の暮らしが見えた気がした。
ローグは問いを飲み込む。知りたいから聞くのと、話せるから話すのは違う。
少女はローグの左手を見た。黒刃を出た日から、無意識に握りしめる癖がついている。
仲間を失って悲しいのではない。あの沈黙を、まだ仲間だった頃の記憶ごと捨てきれないだけだ。
「それ以上嗅ぐな」
「かなしい」
「違う。腹が減ってるだけだ」
少女の腹が鳴った。
今度はローグが黙る番だった。
近くの屋台で硬いパンを二つ買う。一つを放ると、少女は空中で受け取り、表裏の匂いを確かめてから小さく齧った。
「銅貨三枚だ。高級品だから味わえ」
少女はパンを見つめる。
「返す?」
「食った物をどう返す」
「何する?」
「何もしない」
少女の警戒が強くなる。
何もしない、という言葉の方が信じられないらしい。
「罠を外した代金も、パンの代金もいらない。俺が勝手にやった。お前も勝手に食え」
フィルはパンを地面へ置いた。
「いらない?」
「食べたい。でも、あと怖い」
与えられた物には、あとから鎖がつく。
ローグは残りのパンを自分で食べ、同じ屋台でもう一つ買った。今度はフィルの前へ銅貨とパンを並べる。
「パンは銅貨三枚。俺が貸す。返したくなったら仕事を一つ手伝え。返したくなければ、そのままでいい」
「仕事?」
「俺が嘘をついたら教える」
フィルは長く考え、パンを取った。
施しではなく、自分で選べる約束へ形を変えると受け取れた。
「もう仕事した」
「早いな」
「ローグ、置いていく。うそ」
借りは一口目で返済された。
「勝手?」
「自分で決めるってことだ」
少女はその言葉を口の中で転がすように黙った。
群れでは、先頭の狼が走る方角を決めた。人間に捕まってからは、鎖が進む方角を決めた。
自分で決めていいと言われたのは、初めてだった。
しばらくして、少女はもう一口齧った。今度は少し大きかった。
「名前は」
「フィル」
「そうか。俺はローグだ」
「知ってる」
「なぜだ」
「みんな、言ってた。義賊ローグ」
「罠の中で聞いてたのか」
「その前。屋根。金、返してた」
どうやら少女は、助ける前からローグを見ていたらしい。
だから罠を外す手を、完全には拒まなかった。
「それは人違いだ」
「うそ」
市場の入口で、組合の掲示係が新しい紙を貼った。
《港湾貴族家の監査に伴い、二重徴税被害者を募集する》
その隣には別の紙がある。
《黒刃、下水遺跡依頼失敗。信用査定中》
通りすがりの冒険者が鼻で笑った。
「斥候を切った翌日に二重罠だってよ」
「ローグの報告を握り潰したって話、本当だったのか」
ローグは足を止めなかった。
望んでいたはずの言葉だった。だが胸が晴れるより先に、会議室で黙った三人の顔が浮かぶ。
フィルが袖を引いた。
「うれしくない?」
「他人が落ちれば、俺の足場が高くなるわけじゃない」
「でも、ローグ、悪くない」
短い言葉だった。
ローグは掲示板を振り返らず、フィルへ大きい方のパンを渡した。
「それは最初から知ってる」
今度の言葉には、嘘の匂いがしなかったらしい。
フィルは何も言わず、パンを受け取った。
もう何も聞かないことにした。
夕方、雨が降り始めた。フィルは軒下で濡れたまま、それでも十歩後ろにいる。
ローグが歩けば歩き、止まれば止まる。
その距離は、追い払うには近すぎて、手を差し出すには遠すぎた。
雨脚が強くなり、少女の足の包帯が濡れていく。
ローグは外套を脱いで投げた。
少女は避け、外套は水たまりへ落ちた。
「……今のは俺が悪い」
拾って泥を払い、今度は地面へ置いてから離れる。
少女はしばらく見つめ、ローグが背を向けたあとで外套を肩へかけた。
十歩の距離が、九歩になった。
ローグは自分の隠れ家の扉を開けた。
「一晩だけだ」
フィルは鼻を動かし、ほんの少しだけ目を細めた。
「うそ」




