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第008話 罠の中の銀色

 罠は、獲物を殺すためではなく、苦しませるために作られていた。


 太い鉄の顎が足首を挟み、暴れるほど鎖が締まる。内側の棘には麻痺毒が塗られ、周囲には引きちぎられた白銀の毛が散っていた。


 ローグは霧の中でしゃがんだ。


 道の脇には、罠を隠していた枯れ葉が不自然に寄っている。血の筋はそこから石畳を横切り、壊れた荷車の陰まで続いていた。


 獲物は一度、罠ごと逃げようとしたらしい。鎖の端を留めた杭が半分抜け、石には爪で削った跡が残っている。それでも鎖は切れず、引きずられた鉄顎が二つ目の術式を踏んだ。麻痺毒が回ったのは、そのあとだ。


 罠を仕掛けた者は、弱るまで待ってから回収するつもりだった。


 足跡は三人分。まだ新しい。罠の主は遠くへ行っていない。


 罠の中心にいたのは、少女だった。


 白銀の短髪。薄紫の瞳。泥と血で汚れた白い服。見た目は十二歳ほどだが、両手を地面につけ、獣のように歯を見せている。


 耳は人間と同じ位置にある。だが髪の間から覗く先端はわずかに尖り、爪は刃物のように硬い。足元には人の靴ではなく、獣の足跡が途中まで続いていた。


 人か、狼か、そのどちらでもないのか。


 判断できないものへ近づかない。それが斥候の基本だ。


 だが罠の棘は、もう少女の肉へ食い込んでいる。


「面倒だな」


 少女が唸った。


「同感か。気が合う」


 一歩近づくと、霧が急に濃くなった。指先すら見えなくなる白さの中で、少女の瞳だけが淡く光る。


 自然の霧ではない。


「魔族……でもなさそうだな」


 唸り声が低くなる。


 ローグは短剣を鞘へ戻し、空の両手を見せた。


「安心しろ。俺は善人じゃない。善人はもっと安心させる顔をする」


 少女の視線が、ローグの腰にある短剣へ落ちた。


 ローグは鞘ごと外し、手の届かない場所へ置いた。丸腰になる必要はない。だが彼女にとって、武器を持った人間はすべて同じに見える。


「これで少しはましか」


 返事の代わりに、少女は鉄顎へ噛みついた。


「それは壊れない。歯を大事にしろ」


 少女は答えない。鉄顎へ力をかけ、痛みに顔を歪める。それでも助けを求める声は出さなかった。


 人間へ助けを求めれば、もっと悪いことが起きると知っている顔だった。


 罠を見る。解除杭は三本。一本でも順番を間違えれば、鉄顎が骨まで砕く。鎖の先には鈴の術式があり、罠の主へ位置を知らせ続けている。


「狩人が戻る前に外す。噛むなら終わってからにしろ」


 短剣の先で一つ目の留め金を上げる。


 少女の肩が震えた。


 二つ目。毒針が飛び出し、ローグの袖を裂く。


 霧の奥から複数の足音が近づいてきた。


「いたぞ! 銀狼だ!」


「生け捕りにしろ。術師が高く買う!」


「傷を増やすなよ! 前の二匹は値が落ちた!」


 少女の全身が震えた。


 銀狼。それが種族名なのか、狩人が勝手につけた呼び名なのかは分からない。ただ、捕まれば治療されるのではなく、売られることだけは分かった。


 前の二匹。


 ローグはその言葉を頭へ残した。今ここで狩人を倒しても、売り先までは消えない。逃げ道と顔と声を覚えておけば、あとで帳簿まで辿れる。


 助けるなら最後まで、などと考えたつもりはない。


 ただ、途中で放り出す方が寝覚めが悪い。


 三つ目。


 鉄顎が緩む。


 ローグは少女の足を引き抜き、代わりに石を挟んで罠を閉じた。直後、矢が飛んできて鎖へ刺さる。


「やはり見張ってたか」


 ローグは外しておいた短剣を爪先で跳ね上げ、掴んだ。霧の向こうへ二本投げる。悲鳴が上がったが、狙ったのは狩人の服と木の幹だ。袖を縫い止められた二人がもつれ合う。


 三人目が網を投げた。


 少女を抱えて伏せると、重い網が背中を擦った。糸には魔力を鈍らせる鉱粉が塗られている。白い霧が一瞬薄くなった。


 霧が晴れた隙間に、狩人たちの姿が見えた。革鎧の胸には、波を三本重ねた青い印。港の狩猟組合のものではない。裏市場で魔獣を扱う商会の印だ。


 先頭の男が鉤縄を振り上げる。


「そいつを置いていけ! 盗品を抱えて逃げれば、お前も同罪だぞ!」


「人を品物と呼ぶ奴の法律は知らないな」


「人じゃない!」


 ローグは答えず、少女の頭を庇った。言い返す価値のない言葉もある。


 だが逃げるだけでは、次の罠が置かれる。


 ローグは先頭の男が腰へ下げた革筒を見た。回収証だ。捕獲した数、売り先、受取人の署名を残すための物だろう。


 少女を左腕で支えたまま、右手のナイフを投げる。


 刃は男の帯だけを切った。革筒が石畳へ落ちる。


 ローグは足先で跳ね上げ、外套へ収めた。


「それは返せ!」


「盗品なんだろ。持ち主へ返すだけだ」


 回収証の端には、銀狼三、幼体二と書かれていた。


 この少女だけではない。


 助けた瞬間から、狩人三人を撒くだけの仕事ではなくなった。


「道理で逃げ切れないわけだ」


 ローグは罠の鎖を切らず、その留め具だけを蹴った。鉄顎が跳ね、追ってきた狩人の長靴を挟む。


「自分で作った物の使い心地を確かめろ」


 少女を抱えようとすると、鋭い爪が頬を掠めた。薄く血が滲む。


「元気で結構。だが今は我慢しろ」


 追手へ煙玉を投げ、少女を抱えて路地の壁を蹴る。屋根へ上がるたび、腕の中の身体が硬くなった。悲鳴は上げない。ただ、捕まらないようローグの外套へ爪を立てている。


 追手を撒くため、ローグは水路へ降り、干物市場を抜け、屋根へ戻った。少女は道中ずっと黙っていたが、狩人の声が遠ざかるにつれて呼吸だけが少しずつ戻った。


 水路を渡るとき、少女の指から力が抜けた。麻痺毒が回っている。ローグは速度を落とさず、腕の位置だけを変えて傷口へ負担がかからないようにした。


 少女はその動きを見ていた。


 怯えは消えない。それでも、先ほど頬を裂いた爪が、今度は外套の布だけを掴んだ。


 安全な廃倉庫まで来て、ゆっくり床へ下ろした。


 少女はすぐ壁際へ這い、傷ついた脚を庇って身構えた。


 ローグは水筒と包帯を床へ置き、自分は反対側へ下がる。


「毒が入ってると思うなら飲むな。だが、その傷は洗え」


 少女は水筒へ近づかない。


 ローグは自分で一口飲み、もう一度床へ置いた。


 それでも動かない。


 仕方なく短剣で自分の袖を切り、頬の爪傷を拭った。同じ水を使っても倒れないことを見せる。


 少女はようやく手を伸ばし、水筒を奪うように掴んだ。


 一口飲む前に、少女は水を床へ数滴垂らした。石の変色を待ち、次に匂いを嗅ぐ。毒を避ける手順を、誰かに教わったのだろう。


 十二歳ほどの子どもが覚えるには、あまりに手慣れていた。


 傷を洗うと、麻痺毒の臭いが強くなる。ローグは毒消しの小瓶も滑らせた。


「半分だけ飲め。全部だと眠る」


 少女は瓶の匂いを嗅ぎ、ローグを見る。


「眠らせて売るなら、さっきの連中へ渡してる」


 意味が通じたかは分からない。少女はほんの一滴を舐め、しばらく待ってから半分を飲んだ。


「もう逃げていい」


 ローグは入口から離れ、窓も開けた。どちらからでも外へ出られる。


 少女はまず窓を見て、次に扉を見た。逃げ道を数えている。


 自分と同じ癖だと気づき、ローグは顔をしかめた。


 廃倉庫の外で、狩人たちの怒鳴り声が遠く聞こえた。


「銀狼は高く売れる」「霧を使う個体だ」と叫んでいる。


 少女の耳がわずかに動き、身体がまた硬くなる。


 ローグは窓辺へ罠を置き、扉の前に空箱を積んだ。


「今夜だけは、ここへ来る奴を俺が止める」


 ローグは奪った革筒を開いた。


 中には裏市場の受領票が七枚ある。買い手の名は伏せられていたが、受取場所は同じだった。東水門、干潮から二刻後。


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