第007話 義賊の流儀
霧港ヴァルでは、金持ちほど高い場所に住む。
高潮から逃れ、貧民街を見下ろし、自分たちの悪事が届かない高さへ屋敷を建てる。
だから屋根を歩けば、悪党の家を探すのは簡単だった。
ローグは貴族街の煙突へ片足をかけ、三階の窓へ細い針金を差し込んだ。
「防犯に金をかけるなら、職人にも払えよ」
窓枠は見栄えだけの安物だ。錠前は三秒で外れた。
屋敷の主は港湾税を二重に取り、払えない商人から倉庫を奪っている。今夜、欲しいのは宝石ではない。
日中、ローグは荷運び人に紛れて屋敷を一周した。裏門の衛兵は賭け事に夢中で、東壁の犬は肉より魚を好む。三階の執務室だけ、夜になっても灯りが消えなかった。
屋敷の主は寝る前に金貨を数える。
悪党は、自分の罪を眺めながらでなければ眠れないらしい。
執務室へ忍び込み、壁を叩く。音の違う板を外すと、帳簿と封印済みの徴税票が現れた。
「あった」
帳簿には、正規の納税額と実際に奪った額が二列で記されている。悪党ほど記録を残す。自分がどれだけ儲けたか、数えずにはいられないからだ。
廊下で靴音が止まった。
「誰だ!」
ローグは帳簿を外套へ入れ、窓から飛び出した。追手が殺到する。その足元で、あらかじめ緩めておいた絨毯留めが外れた。
三人まとめて転ぶ派手な音。
「床は滑る。覚えておけ」
矢が耳を掠めた。雨樋を蹴り、霧へ飛び込む。屋根から屋根へ移りながら追手の数を数え、わざと港とは逆へ足跡を残した。
鐘楼の屋根へ飛び移ったところで、前方に弩を構えた衛兵が現れた。
「止まれ! 帳簿を置け!」
「お前、あの帳簿の中身を知ってるか」
「黙れ!」
「知らないなら、命を懸ける給金か考えろ」
衛兵の指が止まる。
その一瞬にローグは屋根瓦を蹴った。割れた瓦が弩の弦へ挟まり、矢は夜空へ逸れる。ローグは男の横を抜けたが、短剣は使わなかった。
雇われた者まで悪党とは限らない。
それが、黒刃を出て最初に自分で決めた流儀だった。
夜明け前、帳簿の原本は港湾組合長の寝台へ置いた。揉み消されないよう、写しは神殿と冒険者組合にも届ける。
最初の写しは失敗した。
急いで薄紙へ写したため、雨で二頁分の数字が滲んだ。これだけなら貴族は都合のよい箇所だけ偽造だと騒げる。
ローグは逃走後の足で印刷工房へ忍び込み、活字を借りた。盗むのは帳簿だけと決めた夜に、余計な罪を増やす気はない。
工房主の机へ使用料と短い詫び状を置き、夜明けまでに三部を刷る。
一人で正確に写せると思った慢心の代価は、睡眠と残り少ない銀貨になった。
それでも、証拠を一箇所へ預けて潰された経験はもう繰り返さない。
押収した金貨は税を奪われた商人へ戻し、端数を貧民街の共同炊事場へ運んだ。
金貨の袋には、帳簿の頁番号と返却額を書いた紙を添えた。義賊の美談にする気はない。奪われた金が持ち主へ戻ったという、ただの精算だ。
朝になると、港湾組合の前は騒ぎになった。
被害を訴えても相手にされなかった商人たちが、自分の名の載った帳簿を見つける。組合長は揉み消そうとしたが、神殿と冒険者組合にも写しがあると知り、顔色を変えた。
港湾貴族の屋敷へ監査官が入り、門前には奪われた証文を持つ人々が集まった。
監査官の一人が、原本と三通の写しを机へ並べた。
港湾貴族は盗人の捏造だと喚いた。だが帳簿には本人しか知らないはずの取引日と、私兵へ払った口止め料まで記されている。
さらに、ローグが返した袋の封には、徴税票と同じ印泥が使われていた。奪われた金と屋敷の帳簿が、一本の証拠で結ばれる。
言い逃れを重ねるほど、見物人の顔から恐れが消えていった。
昨日まで門前で頭を下げていた商人が、今日は監査官の前で自分の名を告げる。次の一人が続き、その後ろへ十人が並んだ。
一人では潰された訴えが、列になって屋敷の門を塞いだ。
昨日殴られていた荷運び人もいる。
返された金貨の袋を握り、男は何度も中身を数えた。疑っているのではない。失ったはずの薬代が本当に戻ったことを、指先で確かめている。
男は屋根の上のローグに気づかなかった。
それでよかった。
名乗れば感謝される。感謝されれば、次も期待される。期待されれば、いつか応えられない日が来る。
ローグは誰かに必要とされることを、まだ恐れていた。
ローグは向かいの屋根からそれを見届け、ようやく貧民街へ向かった。
「またあんたか」
炊事場の女主人が袋の重さに眉を上げる。
「知らない男だ。霧が運んできたんじゃないか」
「霧は金貨を人数分に分けないよ」
パン籠を運んでいた少年が駆け寄った。
「ありがとう、義賊のお兄ちゃん」
「俺は義賊じゃない」
「じゃあ泥棒?」
「それより少し聞こえがいい何かだ」
少年が笑い、女主人も笑った。
ローグは居心地が悪くなって目を逸らす。
「感謝されるために動いてない。寝覚めが悪くなるのを避けただけだ」
「でも、こっちはうれしいよ」
女主人は袋の中から金貨を一枚だけ取り出し、ローグへ投げ返した。
「働いた分だ。受け取りな」
「盗人へ給金を払う店があるか」
「盗人なら全部持っていく。あんたは帳簿までつけて返す。面倒な働き方をした分だよ」
ローグは金貨を指で弾き返そうとして、やめた。
報酬を受け取れば善人にならずに済む。そんな理屈をつけ、外套の内側へしまった。
女主人は炊事場の壁へ、一枚の木札を打ちつけた。
《霧の仕事人へ。食事一回分、前払い済み》
「何だ、それは」
「あんたが次に腹を空かせた時の分さ」
「俺は来ない」
「じゃあ別の腹ぺこが食べる。どっちでも損はない」
黒刃では、役に立ったかどうかを剣で倒した数だけで決められた。
ここでは帳簿を運び、金を数え、誰も殺さず戻ったことへ食事が支払われる。
ローグは木札を外さなかった。
その日の夕方、印刷工房の主人が炊事場へ来た。
「夜中に活字を使った馬鹿はどいつだ」
ローグは逃げ道を見た。
主人は詫び状を卓へ置き、鼻を鳴らす。
「使用料が二枚多い。返す」
「迷惑料だ」
「次から表口で頼め。悪党の帳簿なら、こっちにも刷りたい理由がある」
ローグは返された銀貨を受け取った。
頼れば断られると決めつけ、勝手に忍び込んだのは自分だった。
次があるという言葉を、炊事場とは別の場所からも受け取った。
返事をせず、霧の濃い区画へ入った。
賞賛は信用できない。昨日まで仲間だった者が、今日には目を逸らす。それなら礼など受け取らない方が楽だ。
それでも背後から、鍋の蓋が開く音と、子どもたちの歓声が聞こえた。
「義賊のお兄ちゃん、またね!」
また、という言葉だけが追いかけてくる。
次も来ると思われている。
面倒だと思った。
同時に、次に盗むべき屋敷をもう二つ思い浮かべていた。
ローグは一度だけ足を止めた。
振り返らなかったのは、笑っているところを見られたくなかったからだ。
不意に、足が止まった。
血の匂いがする。
獣のものにしては薄く、人のものにしては甘い。さらに鉄と、術式油の臭い。
霧の向こうで鎖が小さく鳴った。
誰かが罠にかかっている。




