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第010話 二人の行動圏

 フィルは部屋の隅から動かなかった。


 ローグの隠れ家は、古い倉庫の二階にある。寝台一つ、机一つ、窓は二つ。逃げ道は四つ。人を泊める場所ではないし、人に知られていい場所でもない。


「好きなところで寝ろ」


 毛布を床へ置く。


 フィルは毛布ではなく、ローグの手を見ていた。何かを渡されるたび、その代価を警戒している。


「食事はそこ。水はこっち。俺の短剣に触るな。扉は閉めても鍵をかけない」


 最後の言葉で、フィルの肩から少し力が抜けた。


 逃げ道を残されることの意味を知っている。


 ローグは寝台へ横になったが、フィルは一晩中、毛布の上に座っていた。


 床板が鳴るたび目を開け、港の鐘が鳴るたび出口を見る。夜明け前になってようやく壁へ背を預けた。


 ローグも眠ったふりをしながら、その気配を聞いていた。


 朝、机の上のパンが一つ消えていた。


 フィルは部屋の隅で、頬を膨らませている。


「盗んだな」


 身体が固まり、逃げ道へ視線が走る。


 ローグは残ったパンを半分に割った。


「次から言え。食料の残りが分からないと困る」


「怒らない?」


「俺も盗む。だが仲間の分は数える」


 仲間という言葉が口から出て、ローグは咳払いした。


「同居人だ。同居人」


 フィルは意味が分からないまま、半分のパンを受け取った。


 翌朝、ローグは一人で仕事へ出た。


 貴族街の倉庫から、買い占められた解熱薬を盗み出す。見張りは六人。風が強く、港の霧も散っている。隠れるには条件が悪い。


 倉庫の外には、薬を求める母親が衛兵に追い返された跡が残っていた。泥の上に小さな靴跡と、破れた処方箋。


 ローグは処方箋を拾い、必要な薬の名を覚えた。


 塀を越えた瞬間、どこからともなく白い霧が流れ込んだ。


 見張りが咳き込み、互いを見失う。ローグは錠前を外し、薬箱を背負って屋根へ出た。


 向かいの煙突に、フィルが座っている。


「ついてくるなと言わなかったか」


 フィルは首をかしげた。


「言ってない」


 確かに言っていない。


「手伝ったのか」


「霧、出た」


「偶然ということにしておく」


 フィルは煙突から降り、薬箱の匂いを嗅いだ。


「苦い」


「薬はたいてい苦い」


「人間、これ欲しい?」


「熱で死にたくない奴はな」


 フィルは、先ほど門前で追い返された親子が去った方角を見た。人間は自分を捕らえる存在だと知っている。それでも、その人間の子どもが苦しむ匂いも分かる。


 倉庫を離れたところで、見張りの一人が追いついた。フィルが低く唸るより先に、ローグは男の足元へナイフを投げる。靴紐だけを地面へ縫い止めた。


「殺すな」


「どうして」


「薬を盗まれた程度で死ぬのは、割に合わない」


 フィルはしばらく考え、霧を薄くした。


「悪い人間?」


「たぶんな。だが今ここで殺すほど悪いかは知らない」


「分からない」


「分からない時に殺さない。それで十分だ」


 フィルはその答えを覚えるように、小さく繰り返した。


「分からない。殺さない」


 追手を置いて屋根へ上がると、フィルが足を止めた。


「悪い人、また来る」


「来るだろうな」


「殺さないと、危ない」


「そういう時もある。だが危ないかもしれない、だけで殺し始めると、最後には全員殺すことになる」


 ローグは自分へ言っているような気がした。


 裏切るかもしれないから誰も信じない。傷つけられるかもしれないから先に離れる。


 それも同じ形の逃げ方だ。


 貧民街へ薬を届ける間も、フィルは一定の距離を保った。子どもが近づくと霧へ隠れ、ローグが歩けばまた現れる。


 拾った処方箋の家では、母親が何度も頭を下げた。ローグは礼を無視して薬の量だけ説明する。


 フィルは開いた扉の外から、熱に浮かされた子どもを見た。霧を細く伸ばし、窓辺の熱気を冷ます。


 誰にも気づかれないほど小さな助けだった。


 ローグだけが、それを見ていた。


 すべて配り終える前に、冒険者組合の監査員が路地を塞いだ。


「倉庫荒らしの通報があった。薬箱を確認する」


 フィルの霧が濃くなる。ローグは逃げず、空になった箱と拾った処方箋を差し出した。


「倉庫の仕入れ帳も調べろ。疫病指定の解熱薬を買い占めている」


「盗みを認めるのか」


「俺を捕まえるのは、そのあとでいい。先に残りの薬を出させろ」


 監査員は処方箋と箱の商標を見比べた。


 そこへ、港湾貴族を調べていた受付係が走ってきた。ローグの顔を見るとため息をつき、監査員へ耳打ちする。


「この人の告発は、先に裏を取ってください。前回、取らずに恥をかいたのは組合です」


 その日の夕刻、倉庫から隠されていた薬箱が十二個見つかった。


 ローグの盗みが消えたわけではない。だが組合は逮捕状ではなく、買い占め調査への協力依頼を出した。


 依頼人の欄には、貧民街共同炊事場と書かれている。


 黒刃の名がなくても、ローグの仕事を見て依頼する者が現れた。


 帰り道、ローグは焼き菓子を一つ買った。


「報酬だ」


「霧の?」


「薬を冷やした分」


 フィルは菓子を半分に割り、小さい方をローグへ差し出す。


「少ないな」


「ローグ、もう食べた」


 いつ見ていたのか分からない。


 二人で食べることが、少しずつ当たり前になっていく。


 ローグは組合から受け取った銅貨を一枚、フィルへ渡した。


「お前の分だ」


「ローグの仕事」


「霧がなければ薬は運べなかった。だから二人の仕事だ」


 フィルは銅貨を噛み、次に匂いを嗅いだ。


「食べられない」


「食べ物と交換できる」


「半分?」


「今回は半分だ」


 フィルは初めて、自分で得た金を掌へ握った。


 二人の行動範囲が、少しずつ重なっていく。


 夜。


 ローグは掠れた声で目を覚ました。


 フィルが毛布の中で震えている。


「いや……群れ……走って」


 閉じた瞼の端から涙が落ちた。床に霧が広がり、その中で狼たちが何かから逃げる影が見える。背後に黒い槍と、人間の軍靴。


 ローグは手を伸ばしかけ、止めた。


 触れれば落ち着くかもしれない。捕まったと思って怯えるかもしれない。


 代わりに寝台を降り、出口を塞がない位置へ座った。


「ここには誰も来ない」


 眠るフィルに聞こえなくても、何度か繰り返した。


 夜が明けるまで、十歩あった距離は、三歩になっていた。


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