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第011話 群れの記憶

 霧の森を、白い狼たちが走っていた。


 先頭の大きな狼が振り返り、幼いフィルを急かす。


 走れ。


 言葉ではない。牙を見せ、尾を振り、群れの匂いで伝えてくる。


 背後では、黒い鉄輪を首につけた獣が木々を折りながら迫っていた。獣の身体には人間の術式が刻まれ、走るたび血の臭いが広がる。


 仲間の一匹が倒れた。


 フィルは足を止めた。戻ろうとした身体を、別の狼が牙で前へ押す。


 走れ。


 群れは一匹ずつ森の奥へ消えていく。守るために離れ、二度と戻らない。


 次の瞬間、森が黒く燃えた。


 フィルは目を開けた。


 ローグが三歩離れた場所に座っている。窓から朝の薄い光が入り、その両手が空であることまで見えた。


「起きたか」


 フィルは壁まで下がった。喉から唸りが漏れる。


「近づかない。安心しろ」


 ローグは両手を上げたまま、視線を少し外した。


 フィルは部屋を見回す。霧。毛布。窓。開いた扉。逃げ道。


 群れはいない。


 フィルは自分の両腕を抱いた。


 夢の中ではまだ幼く、四本の脚で走っていた。目を覚ますと二本の腕と人の指がある。そのたび、自分が群れから遠ざかってしまったように感じる。


 ローグの匂いだけが、眠る前と同じ場所にあった。


「黒い、匂い」


「夢か」


「群れ。みんな、走った」


「追われてたのか」


 フィルは頷きかけ、首を振った。人間に話せば、群れの場所を知られる。もういないと分かっていても、身体が口を閉ざした。


 ローグは聞き出そうとしなかった。


 水だけを床へ置き、窓の外を見た。


「話したくなったら話せ。話したくないなら、それでもいい」


「怒らない?」


「何に」


「言わない」


 ローグは少し考えた。


「情報を隠されるのは嫌いだ。だが、お前の記憶は依頼の報告書じゃない」


 フィルには半分も分からなかった。それでも、話さないことを罰しない匂いは分かった。


 フィルはしばらく彼の匂いを確かめてから、水を飲んだ。


 昼前、ローグは港外れの密輸倉庫を調べる準備を始めた。毒消し、短剣、細縄。いつもより装備が多い。


 昨夜の夢で見えた黒い鉄輪と同じ臭いが、密輸品からすると聞いたからだ。ローグはそのことをフィルへ告げず、一人で確かめようとしていた。


「フィルは残れ。嫌な匂いがする」


 扉へ向かう背中を見て、フィルは毛布を握った。


 怖い。


 人間も、黒い匂いも、群れがいなくなることも。


 けれど、守ると言って一匹ずつ消えた狼たちの背中と、ローグの背中が重なった。


「こわい」


 ローグの手が止まる。


「でも、行く」


「危ないぞ」


「ローグと」


 ローグは扉とフィルを交互に見た。


 置いていく方が安全だ。だが何も知らせず消えれば、群れを失った記憶をもう一度なぞらせることになる。


「途中で嫌になったら戻れ。俺の許可はいらない」


「ローグも?」


「俺は仕事だ」


「戻っていい」


 自分へ返ってきた言葉に、ローグは一瞬黙った。


 ローグは少しだけ笑った。いつもの皮肉で口元だけを曲げる笑いではなかった。


「物好きだな」


 二人で階段を降りる。


 フィルはいつもの十歩後ろではなく、五歩後ろを歩いた。


 港外れの密輸倉庫は、干潮時だけ渡れる石道の先にあった。


 ローグは入口の泥を調べる。人間の靴跡が五人分。重い箱を運んだ引き跡。その上に、獣の爪痕が重なっている。


 フィルが鼻を近づけ、すぐ顔を背けた。


「夢の匂い」


 倉庫の中には、壊れた黒い鉄輪が積まれていた。内側には獣の毛と乾いた血。外側には魔王軍の術式文字が刻まれている。


「群れにつけられてた物か」


 フィルは答えず、一つへ触れた。


 霧の中に、走る白い狼と、首輪へ引かれる黒い獣が一瞬だけ浮かぶ。


 奥の扉が開き、密輸人が二人現れた。


「誰だ!」


 ローグはフィルへ「隠れろ」と言いかけた。


 だが先にフィルが霧を床へ流し、鉄輪の山を隠す。密輸人が視界を失った隙に、ローグは足元の縄を切った。天井から空の網が落ち、二人をまとめて包む。


「今のは助かった」


 捕らえた密輸人の一人が笑った。


「鉄輪を持ち出せば、銀狼の群れがお前たちを追うぞ。もう人間の命令なしじゃ動けない」


 フィルの指が布へ食い込む。


 群れが生きているという希望と、敵になっているかもしれない恐怖が同時に届いた。


 ローグは男を殴らず、積荷票を奪った。


「どこへ運んだ」


「教えると思うか」


「思わない。だから、お前が隠したがった荷印を見る」


 男の視線が一瞬、北東の箱へ動く。


 ローグはその箱から、群れの毛が挟まった輸送札を見つけた。


 フィルは今すぐ北東へ走ろうとしたが、傷ついた足が崩れる。


「今日は戻る」


「群れ、いる」


「いるからこそ、辿り着く前に倒れるな。場所を失わないよう記録する」


 急ぐことと、救うことは同じではない。


 フィルは悔しさを噛みしめながら、自分で帰還を選んだ。


 網の中の一人が、懐の笛へ手を伸ばした。


 ローグからは鉄輪の山が邪魔になり、指先しか見えない。


 フィルが先に気づいた。


 霧を細い狼の形へ変え、男の手首へ噛みつかせる。実体のない牙に驚いた男が笛を落とした。


 ローグは笛を踏み砕く。


「今のも助かった」


 フィルは少し迷い、それから頷いた。


 守られた礼ではない。仲間として働いたことへの礼だと分かったらしい。


 フィルは鉄輪から手を離さない。


「群れ、生きてる?」


「分からない」


 ローグは都合のいい嘘を言わなかった。


「だが、この荷がどこから来たか調べれば、手がかりは見つかる」


 フィルは怖い匂いのする鉄輪を一つ、布で包んだ。


 逃げた記憶から目を逸らすのではなく、追うために持っていく。


 帰りの石道では、フィルが三歩後ろを歩いた。


 干潮が終わりかけ、石道へ波が戻ってきた。


 ローグは先へ渡り、いつものように安全な足場を示そうとした。だがフィルは鉄輪を抱えたまま別の石を選ぶ。


 直後、ローグが示した石へ波がかぶった。


「そっちが正解か」


「海、匂い変わった」


 ローグは黙ってフィルの後ろへ回った。


 初めて、帰り道の先頭を任せた。


 包んだ鉄輪は重かった。それでもフィルはローグへ渡さない。


 過去の重さを誰かに持たせるのではなく、自分で持って歩くと決めたからだ。


 ローグも取り上げず、歩調だけを落とした。


 ローグが誰にも聞こえない声で呟いた。


「俺も、似たようなもんだ」


 フィルには、ちゃんと聞こえていた。


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