第012話 黒刃の夜
「北回廊は危険だ」
夢の中で、過去のローグが言う。
その少し前まで、《黒刃》は笑っていた。
遺跡前の野営地で、盾役が焦がした肉をダリウスへ押しつけ、魔術師が火加減のせいではないと怒っていた。治療師はローグの分だけ、焦げていない串を残してくれた。
「斥候が腹を壊したら、明日進めないでしょう」
「俺の心配じゃないのか」
「仕事の心配よ」
そんな会話がうれしかった。
家族とは違う。友人とも違う。それでも命を預け、帰る場所を同じにする仲間だと思っていた。
だから翌朝、ローグは誰より早く遺跡へ入り、全員が安全に通れる道を探した。
遺跡の壁には新しい傷と古い苔。魔物の足跡は途中で消え、床石だけが不自然に乾いている。天井には、誰かが一度解除して組み直した痕跡まであった。
罠だ。それも侵入者が気づいたあとに進むことを前提にした二重罠。
「南へ迂回する。半刻遅れるが、死人は出ない」
ダリウスは地図を見ずに笑った。
「臆病者の意見は聞いていない。正面を抜ければ十分だ」
「正面に見せかけた処刑場だ」
「黒刃の力を疑うのか」
仲間たちは苦笑した。いつもの言い争いだと思っている。
治療師だけが一度、ローグの地図を見た。
「南へ回っても、日没には間に合うわ」
小さな援護だった。
ダリウスが睨むと、彼女はすぐ口を閉じた。
夢の中のローグは、その沈黙を見ないふりをした。いつか分かってくれると思ったからだ。
黒刃は北へ進んだ。
床が落ち、毒矢が飛び、退路を石壁が塞いだ。盾役が奈落へ落ちかけ、魔術師が毒を受ける。ローグは縄を投げ、二人を引き上げた。
最後に、崩れる足場へ残されたダリウスの腕を掴んだ。
「離すな!」
「誰に言ってる」
指の皮が裂けても引き上げた。
なのに地上へ戻った時、ダリウスは治療師より先に組合の監査官へ言った。
「斥候の索敵不足です。ローグのせいで全滅しかけた」
監査官はローグへ確認しなかった。Sランクの剣士と、表に名の出ない斥候。どちらの言葉が記録に残るか、最初から決まっていた。
「違う」
声を上げたつもりだった。
だが仲間たちの沈黙に呑まれ、言葉は出なかった。
助けたばかりのダリウスの腕には、ローグの血がついていた。
その血さえ、誰も見なかった。
ローグはそこで目を覚ました。
左手を強く握っている。爪が掌へ食い込み、血が滲んでいた。
「くだらない夢だ」
窓の下から、朝刊売りの声が聞こえた。
「号外! 元Sランク《黒刃》、信用等級降格! 下水遺跡の違約金確定!」
ローグは窓を閉めようとして、手を止めた。
紙面には、北回廊の経路変更が隊長判断だったこと、斥候の報告に不備がなかったことが短く載っていた。
受付係が言った記録の訂正だ。
その下には、盾役と魔術師が事情聴取へ応じたとある。追放の席では黙っていた二人が、自分たちの信用まで失いかけて、ようやく事実を話したらしい。
遅すぎる証言だった。
それでも紙に残った自分の名から、「索敵不足」の四文字は消えている。
ローグは記事を切り抜かなかった。丸めて捨てることもしなかった。
食卓の端へ置き、その上にパンの皿を載せた。
過去は消えない。ただし、嘘のまま固定される必要もない。
昼、冒険者組合から事情聴取の呼び出しが届いた。
ローグが証言すれば、ダリウスへ追加処分が下る可能性がある。
フィルは紙を嗅いだ。
「行く?」
「今は行かない」
「怒ってない?」
「怒ってる。だから今行けば、事実より仕返しを選ぶ」
ローグは報告書の原本保全だけを求める返書を書いた。
復讐の機会を捨てたのではない。自分が何を証言したいのか決められるまで、相手の都合で再び会議室へ呼び戻されないと決めた。
フィルは返書の横へ、自分の爪で小さな印をつけた。
「一緒に行く時、行く」
過去へ向き合う日まで、一人で決めなくてよい約束になった。
夢なら、裏切りだけを見せればいい。
笑っていた夜まで一緒に思い出させるから、目覚めたあとも痛む。
隣でフィルが鼻を動かす。
「かなしい匂い」
「寝起きの匂いだ」
「黒い人たち?」
フィルは、ローグが寝言で呼んだ名前を聞いていた。
「昔の仲間だ」
「仲間、捨てる?」
「時々な」
「群れも、置いていった」
「お前を逃がすためだろ」
「同じ?」
ローグはすぐには答えられなかった。
置いていく行為だけを見れば同じでも、その相手へ選択を残したか、自分を守るために切り捨てたかで意味は違う。
「たぶん違う。だが置かれた方が痛いのは、どっちも同じだ」
フィルはローグの左手へ触れた。反射的に引こうとしたが、指先は傷を避けるように軽い。
「お前は、人の嫌がるところばかり見つけるな」
「ローグ、うそ」
「何がだ」
「怒ってない。かなしい」
ローグは返事を失った。
怒っている方が楽だった。裏切った相手を憎めば、自分が信じたことを恥じずに済む。
だが本当は、命を預けた仲間が黙っていたことが悲しかった。追放されたことより、自分が信じた時間まで嘘にされたことが。
「昔の話だ」
「昔も、かなしい」
「昔の傷は、放っておけば消える」
フィルは掌の傷を見た。
「今、血」
夢の傷で、今の手を傷つけている。
ローグは言い返せず、布を巻こうとした。片手では結び目が作れない。フィルが布の端を押さえ、ローグが結ぶ。
不器用な包帯になった。
「狼は理屈を覚えろ」
「ローグは、うそやめる」
「無茶を言うな。俺から嘘を取ったら男前しか残らない」
フィルは真剣に考えた。
「それ、うそ」
「お前の群れの名前は」
突然聞き返すと、フィルが黙った。
狼には人間のような名前がない。匂い、声、歩き方で互いを知る。
フィルは床の霧へ、先頭を走った大きな狼の姿を描いた。
「あったかい匂い」
「そうか」
「ローグの仲間は?」
ローグは四人の名を言いかけ、やめた。
まだ声に出すと、戻りたい気持ちまで蘇りそうだった。
「話したくなったら話す」
自分がフィルへ言った言葉を借りる。
フィルは追及せず、包帯の端だけを整えた。
ローグはため息をついた。
左手は、もう握りしめていなかった。




