第013話 村一つ分の話
村一つを救っても、報酬は出ない。
「だから関わらない」
ローグは街道の高台から、霧港近郊の農村を見下ろした。
村の中央では、魔王軍の紋章を掲げた徴税官が冬越しの麦まで荷車へ積ませている。王国の徴税票を偽造し、拒む者を反逆者として連行するつもりらしい。
村長の頬には殴られた痕があり、広場の杭には若い農夫が二人縛られていた。見せしめだ。
徴税官は王国の役人を装っているが、兵の靴には魔王軍領で使われる黒灰がついている。正規の関所を通っていない証拠だった。
「関われば面倒だ」
フィルは納屋の前に座る子どもを見た。頬が痩せ、空の椀を抱えている。
「おなか、かなしい匂い」
「腹は匂わない」
「ローグも、かなしい」
「俺は報酬の話をしてる」
「うそ」
ローグは徴税官の人数を数えた。十二人。見張り交代は日没後。麦の保管倉庫には二重錠。村人を逃がすなら西の森だ。
関わらない人間の考えることではなかった。
「ここで待て」と言いかけ、ローグはやめた。
「フィル。村を隠せるか」
「全部?」
「無理なら無理と言え」
フィルは風向きと家々の匂いを確かめる。
「少し。長く、むり」
「十分だ。俺が長引かせない」
初めて、最初から二人で立てた計画だった。
その夜、徴税官の宿から帳簿と通行証が消えた。
見張りは白い霧の中で互いを敵と間違え、倉庫の鍵は音もなく開いた。ローグは偽造徴税票を焚き火へ投げ、村人へ本物の通行証を配る。
杭に縛られた農夫の縄も切った。一人は奪った槍で戦おうとしたが、ローグが止める。
「戦えば逃げる時間がなくなる。勝つのは、村の全員が生き残ってからだ」
農夫は悔しさを飲み込み、老いた母親の荷物を背負った。
「荷物は一人一つ。麦を優先しろ。音を立てるな」
村人たちは麦袋を背負い、西の森へ向かった。
森の入口で、赤子が泣き出した。
母親が必死に口を塞ごうとするが、声は夜気へ響く。追手の松明が向きを変えた。
「置いていけ」
村人の一人が麦袋を指した。荷を軽くし、走るしかない。
「冬を越せなくなる」
別の者が反論する。
ローグは地形を見た。全員で走れば追いつかれる。戦えば怪我人が出る。麦を捨てれば、逃げても春まで生きられない。
「フィル。霧を村ではなく森へ流せるか」
「風、反対」
「なら風を作る」
ローグは徴税官の荷車から盗んだ油を、東側の枯れ草へ細く撒いた。火をつけると熱気が上がり、谷の風向きが一時だけ変わる。
白い霧が森を包み、松明の光を飲み込んだ。
「これで三分。荷は捨てるな。子どもから進め」
村人たちは再び歩き始める。
ローグは最後尾に残り、足跡を枝で消した。フィルも隣へ残った。
「先へ行け」
「一緒に決めた」
密輸倉庫へ向かった朝に交わした言葉が返ってくる。
二人で偽の足跡を作り、追手を沼へ導いた。
ところが徴税官の一人は沼へ入らず、村人の本当の足跡を見つけた。
若い農夫が槍を持って戻ろうとする。
「俺が足止めする」
「死ぬ前提の作戦は却下だ」
ローグは農夫の槍へ、徴税官から奪った外套を結んだ。
フィルが霧の中でそれを走らせる。追手には、武装した一団が南へ逃げたように見えた。
農夫自身は老人の荷車を押し続ける。
戦う役目を奪ったのではない。生き残るために、今必要な役目を選び直させた。
追手が偽の旗を追う間に、最後の村人が洞窟へ入った。
最後に残った老人は足が悪く、荷車へ上がれずにいた。ローグが背を貸すと、老人が尋ねる。
「なぜ助ける」
「徴税官の顔が気に入らなかった」
「それだけか」
「村一つ分の報酬を払えるなら、別の理由を考える」
本当は、答えが見つからなかった。
助けない理由ならいくつもある。危険、無報酬、魔王軍から目をつけられる。それでも空の椀を抱えた子どもを見た時、もう背を向けられなかった。
誰かのために動いたと認めれば、また誰かを信じることになる。
だから報酬の話へ逃げた。
老人は声を殺して笑った。
追手の松明が近づく。
フィルが両手を広げると、白い霧が村を包んだ。ローグは徴税官の長靴を盗み、反対側の沼へ偽の足跡を残す。
徴税官たちは空の村を走り回り、夜明けまで誰も見つけられなかった。
夜明け前、避難先の洞窟で村人たちは麦を数えた。一袋も欠けていない。
村長は帳面を開き、救い出した人数を読み上げた。
老人十二。子ども十九。負傷者二人。行方不明、零。
最後の数字で、洞窟の空気が変わった。
誰も置いてこなかった。
剣で徴税官を倒した者はいない。それでも村は奪われず、全員が冬を越す麦と一緒にここへいる。
「あなたは戦わずに村を救った」
「俺だけじゃない」
ローグはフィルと、荷車を押した農夫を示した。
「逃げた全員が、隣の荷を持った。誰か一人でも自分だけ走っていたら、間に合わなかった」
救った英雄を一人作らず、村人自身の選択を返した。
村長の言葉に、ローグは返事をしなかった。
黒刃では何体倒したかだけが手柄だった。ここでは殺さなかったこと、荷を捨てなかったこと、最後の一人まで数えたことが結果になる。
村長はさらにフィルへ向き直った。
「霧の方にも礼を言わせてほしい」
フィルはローグの後ろへ隠れかけ、途中で止まった。
「フィル」
自分で名を告げる。
「フィル殿。ありがとう」
人間から商品名でも種族名でもなく、自分の名で礼を言われた。
フィルは木の実を握り、小さく頷いた。
村長が報酬代わりに銀貨を差し出したが、ローグは受け取らなかった。
「払えるなら、春に種を買え」
「報酬が必要なのでは」
「気が変わった。顔が気に入らない奴から取る」
フィルが鼻を動かす。
「うそ」
村人たちの前で言われ、ローグは咳払いした。
洞窟の奥では、助けた赤子が母親の腕で眠っている。
報酬より、その寝息を守れたことへ安堵している自分を、ローグはまだ認めなかった。
避難先で、痩せた子どもがフィルへ小さな木の実を差し出した。
フィルはローグの背後へ隠れる。
「毒じゃない」
「人間」
「見れば分かる。嫌なら断れ」
子どもは手を引かずに待った。
フィルは木の実と子どもの匂いを交互に確かめ、そっと受け取る。それから、ぎこちなく口元を上げた。
笑い返そうとしているのだ。
ローグは見ていないふりをした。
その横顔だけは、少し笑っていた。




