第014話 影が来た
ローグの影だけが、半歩遅れて動いた。
村を救った帰り道。霧の薄い街道で、午後の太陽は背後にある。それなのに影は前ではなく横へ伸び、やがて人の手のように指を開いた。
ローグは立ち止まった。
「フィル、俺の後ろへ」
「いやな匂い」
「分かってる。出てこい」
短剣を抜く。
地面へ張りついていた影が立ち上がった。
黒い外套、色のない顔、光を返さない瞳。男の輪郭をしているのに、夕日を受けても新しい影を落とさない。
フィルの霧が男へ近づくと、触れる寸前で灰色に染まり、地面へ落ちた。
生き物の匂いがない。
それなのに、ローグの鼻には濡れた石と古い血の臭いがした。長く光の当たらなかった場所の臭いだ。
「ローグ=クロウ」
「名乗ってない相手に呼ばれるのは趣味じゃない」
「元Sランクパーティ《黒刃》の斥候。忠告を無視され、失敗を押しつけられ、捨てられた男」
ローグの笑みが薄くなる。
「調べ物が好きなら図書館へ行け」
「俺はシャドウ。人が隠したものを、影の中から見る」
「覗きが趣味か。ますます話が合わない」
ローグは軽口を叩きながら、退路を探していた。右の森は影が深い。左は開けているが、フィルを庇いながら走れば追いつかれる。
シャドウの視線が一瞬、左へ動いた。
考えを読まれたようだった。
ローグは試すため、右へ重心を移しながら左の木を見た。
シャドウの足元から、左の退路を塞ぐ影が伸びる。
思考そのものを読んでいるのではない。視線、呼吸、筋肉の動きから、選ぶ道を先回りしている。
ローグと同じ技術だ。
違うのは、シャドウが相手の恐怖まで材料にすることだった。
シャドウは嘲りに反応しなかった。
「お前と俺は同じだ。信じた相手に裏切られ、期待を捨てた」
街道脇の木々から影が伸び、黒刃の仲間たちの顔になる。ローグを見ない三人と、罪を押しつけるダリウス。
幻のダリウスが、あの日には言わなかった言葉を口にした。
『戻ってこい。お前が必要だ』
ローグの足がわずかに止まる。
謝罪ではない。それでも、一度は聞きたかった言葉だった。
「安い幻だな」
幻の背後へ、朝刊の記事が浮かぶ。
信用等級降格。依頼停止。違約金。
シャドウはローグが見なかった黒刃の現在まで、影の中から拾ってきた。
『お前がいなければ駄目だった』
今度のダリウスは膝をついた。
欲しかったはずの光景だった。
だが、その口から出るのはローグを必要とする言葉だけで、ローグへしたことを悔いる言葉ではない。
戻ればまた道具にされる。
「必要と謝罪を混ぜるな」
ローグは幻の喉元ではなく、足元の影へ短剣を投げた。
幻が崩れる。
「俺が欲しかったのは席じゃない。選択を尊重する仲間だ」
短剣を投げると、ダリウスの顔は黒い煙へ崩れた。
だが胸の奥で反応した感情までは消せない。
「人は信じた瞬間に裏切る。お前はもう知っている」
「知ってることを得意げに言うな」
「ならば、なぜ弱者を救う」
「弱いから助けたわけじゃない」
「では、何のためだ」
「質問が多い奴は嫌われるぞ」
「答えられないのだな」
ローグは答えなかった。
感謝が欲しいわけではない。正義を名乗る気もない。ただ、見捨てれば昔の仲間たちと同じになる気がした。
まだ言葉にできない答えだった。
シャドウはそれを笑わなかった。ただ、自分と同じ空洞を見つけた者のように頷いた。
その理解の仕方が、ローグには何より不快だった。
シャドウの視線が、背後のフィルへ移る。
フィルが唸り、白い霧を出す。
「その獣が、お前にもう一度期待させている」
「期待して何が悪い」
言い返してから、ローグ自身が驚いた。
シャドウも初めて、わずかに首を傾げる。
「期待は裏切りの入口だ」
「入口で引き返せば、どこにも行けない」
まだ確信ではない。ただ、フィルと歩いた数日の中で生まれ始めた答えだった。
「狼だ。獣呼ばわりすると噛むぞ」
「だから邪魔だ」
シャドウの腕が影へほどけ、フィルの足元へ伸びた。
ローグはフィルを抱えて避けようとした。
だがフィルが先に横へ跳び、霧で影の軌道を曲げる。ローグの腕だけが空を切った。
シャドウが笑う。
「守る者へ拒まれるのは怖いか」
「避けられるなら、その方がいい」
言葉では答えたが、胸には小さな痛みが走った。
必要とされたい欲望は、守りたい気持ちへ簡単に紛れ込む。
ローグはフィルを自分の後ろへ戻さず、並ぶ位置を空けた。
シャドウはその変化を見て、初めて攻撃の手を止めた。
ローグが踏み込み、短剣で地面を縫う。刃は影をすり抜けたが、シャドウの注意はローグへ戻った。
「次は外すな」
「次があると思うのか」
「お前みたいな奴は、言いたいことを言い切るまで消えない」
影が地面へ沈んだ。
ローグが短剣を突き立てた時には、冷たい黒い染みしか残っていない。
染みの中には、小さな黒い針が残されていた。
ローグが布越しに拾うと、針は生き物のようにフィルの方角へ向く。
狙いは最初からローグだけではない。
フィルの感情を読み取る力と霧を、シャドウは危険だと判断している。
「場所を変える」
ローグは村へ戻る道を選ばなかった。
シャドウが二人を追えば、救ったばかりの村人まで影へ巻き込む。
代わりに旧街道の石橋へ向かう。逃げ道は少ないが、人家もない。
「村、置いていく?」
「守った村を囮にはしない」
ローグは村長へ危険を知らせる矢文だけを放った。自分たちの位置は書かない。
助けた相手に次の危険まで背負わせず、自分たちの戦場を選ぶ。
その分、隠れ家へ戻るまでの距離は倍になった。
「逃げる?」
「今はな。準備のない正面戦闘は勇敢じゃなくて馬鹿だ」
言いながら、ローグは自分が次には正面へ立つことを、どこかで予感していた。
フィルが黒い染みへ霧を近づけると、霧は二つに裂けた。
片方はローグへ、もう片方はフィル自身へまとわりつく。
シャドウは二人の間へある信頼を見つけ、そこを切ろうとしている。
敵の狙いが分かったからこそ、ローグは初めて本当の恐怖を覚えた。
守りたいものの形を、敵にも知られてしまった。
フィルが袖を掴む。
「ローグ。こわい匂い」
「ああ」
いつものように笑ってやろうとした。
だが、口元は動かなかった。




