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第015話 フィルの危険

 シャドウの言葉など、忘れればいい。


 ローグはそう決めた。


 決めたはずなのに、曲がり角では二度振り返り、水面や窓へ映る影を確かめ、フィルを一人にしなかった。仕事も断り、隠れ家の周囲へ罠を増やした。


 窓には鈴、階段には糸、屋根には鏡片。敵が影なら灯りを増やせばいいと、油灯を昼間から点けた。


 フィルは眩しそうに目を細めたが、ローグは消さなかった。


 守っているつもりで、隠れ家を檻のように変えていることには気づかなかった。


 フィルは窓へ近づき、鈴へ触れた。


 音が鳴るとローグが振り返る。


「そこは触るな」


「外、見たい」


「今は駄目だ」


「いつ?」


 答えられなかった。


 シャドウが消えるまで、と言えば、いつになるか分からない。安全になるまで、と言えば、世界のどこにも完全な安全などない。


 フィルは窓から離れた。


 従ったのではない。諦めた匂いがした。


 その匂いは、黒刃の会議室で自分が何も言わず扉を開けた時と似ていた。


「ローグ、こわい匂い」


「警戒してるだけだ」


「うそ」


「今日は鼻を休ませろ」


 買い出しの帰り、細い路地へ入った時だった。


 ローグは人通りの多い道を選んだつもりだった。だが角を曲がるたび店が閉まり、人影が消え、気づけば同じ井戸の前へ戻っていた。


 影で道そのものを曲げられている。


「戻る」


 フィルが逆方向へ歩く。


「待て。そっちはさっき通った」


「ローグ、同じ道、選ぶ。影、知ってる」


 フィルは目を閉じ、匂いだけを頼りに路地を曲がった。


 魚の腐った臭い、洗濯石鹸、焼いた木の実。視界は同じ井戸を見せていても、匂いの順番は一つずつ違う。


 二つ目の角で、幻の壁が揺らいだ。


 ローグがフィルへ守られる側になった瞬間だった。


 だが出口へ届く前に、足元の影が動いた。


 フィルの足元で影が揺れた。


 細い指のような黒が足首へ絡み、白い霧を吸い込んでいく。フィルの身体が強張った。


 ローグは考える前に短剣を投げた。


 刃は影の中心に隠れていた黒い術式片を壁へ縫い止める。影は甲高い音を立てて縮み、煤のように消えた。


 フィルがその場へ座り込む。


 ローグは駆け寄り、足首、手首、瞳の色を順に確かめた。


「怪我は」


「ない」


「痺れは」


「ない」


「なら立て。場所を変える」


 ローグはフィルの腕を掴みかけ、寸前で止めた。


 罠から救った時と同じだ。急げば急ぐほど、相手の恐怖を置き去りにする。


「歩けるか」


 フィルが自分で立つのを待つ。わずかな時間なのに、周囲の影がすべて襲いかかってくるように感じた。


 声が荒くなっていた。


 フィルはローグを見上げる。


「怒ってる?」


「違う」


「こわい」


「違う」


 違わなかった。


 黒刃を失った時より怖い。あの時は、捨てられたあと一人になれば済んだ。今はフィルが傷つくことを想像しただけで、呼吸が浅くなる。


 誰も近くに置かなければ、失わずに済む。


 黒刃を追放された夜に選んだはずの答えが、頭の奥から囁く。


「フィルだけは関係ない」


「関係、ある」


 フィルは自分の足で立ち、ローグを見る。


「シャドウ、フィル狙う。ローグだけじゃない」


「だから離す」


「フィル、決める」


「決めて怪我をしたら、俺は後悔する」


「フィルも。ローグ怪我、後悔する」


「だから相手を閉じ込めるのか」


 フィルは窓の鈴を見た。


「それ、嫌」


 短い答えだった。


 ローグは鈴を一つ外した。


 全部は外せない。敵への警戒は必要だ。だが窓を開けるたび許可を求めさせる罠は、守りではなく支配になっていた。


 フィルは自分で窓を少し開け、外の匂いを確かめる。それから閉めた。


 安全を捨てたのではない。安全の作り方へ、守られる側も加わった。


 ローグはその言葉を聞いたはずなのに、恐怖の方を選んだ。


 自分の計画こそ正しいと、地図を開いた。


 そこまで言って、ローグは止まった。


 関係ないはずの相手なら、なぜ守ろうとしている。


 罠から外しただけの少女。一晩だけ泊めるはずだった少女。仕事へ勝手についてきて、嘘を嗅ぎ分け、今は自分の隣を歩いている。


「ローグ?」


「何でもない」


 隠れ家へ戻ると、ローグは床へ地図を広げた。フィルを預けられる村、追手を撒ける道、自分一人で南へ逃げる経路。


 扉の下から紙が差し込まれた。


 冒険者組合からの依頼状だった。


 《霧港北村避難誘導の功績により、ローグ=クロウおよび協力者フィルを正規調査員として登録する》


 協力者の名まで記されている。


 報酬欄は二人分。任務の決定権も二人にある。


 ローグは一瞬だけ依頼状を握り、それから地図の端へ伏せた。


 今なら黒刃なしでも仕事を選べる。フィルも、ローグの付属物ではなく一人の協力者として認められた。


 だからこそ、シャドウに奪われる前に遠ざけたいという恐怖が強くなった。


 手に入れたものが増えるほど、失う想像も具体的になる。


 北の村には、獣人の治療経験がある老薬師がいる。食料も水もあり、魔王軍の影響も薄い。


 条件だけ見れば、ローグより安全な相手だった。


 フィルの意思を除けば。


 フィルは地図の青い線を見た。


「ローグは赤?」


「色の意味まで分かるのか」


「匂い、違う」


 ローグは地図を畳んだ。


「明日の朝、出る」


 どちらへ、とは言わなかった。


 言わなくてもフィルは、別れる計画の匂いを嗅いでいた。


 それでもフィルは地図を奪わなかった。


 ローグが自分で嘘をやめるか、夜が明けるまで待つことにした。


 守るためだと言えば、置き去りにしても許される。


 その夜、灯りを消してもローグは眠らなかった。


 フィルが毛布から顔を出す。


「ローグ、こわい匂い」


 ローグは答えなかった。


 沈黙の中で、自分が何を失いたくないのかだけは、もう分かっていた。


 そして夜明け前、二人分の食料を一つの旅袋へ詰め始めた。


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