第016話 逃げるか、立つか
夜明け前、ローグは二人分の食料を一つの袋へ詰めていた。
北の村まで半日。そこには借りのある老薬師がいる。フィルを預け、自分は南へ向かう。シャドウが狙っているのはローグだ。追手は必ず一人の方を選ぶ。
これが一番ましな逃げ方だ。
老薬師には、夜のうちに短い手紙を書いた。
銀色の髪の少女が行く。人を怖がる。扉に鍵をかけるな。代金は後で払う。
事情は書かなかった。書けば手紙を奪われた時、フィルの居場所を教えることになる。
ローグは窓辺の鏡で、通りの様子を確認する。魚売りの荷車。眠そうな衛兵。パン屋の煙。昨日までと同じ朝だ。
同じに見えるものほど危険だと、斥候の勘が告げていた。
地図には、フィルの道を青、自分の道を赤で記した。二本の線は村で別れ、その先では二度と交わらない。
「置いていく?」
背後から声がした。
フィルが毛布を肩へかけ、旅袋と地図を見ている。
「安全な場所へ移すだけだ」
「安全?」
「人が少ない。森に近い。薬師は口が堅い。お前が嫌なら、いつでも出ていける」
説明するほど、用意のよさが別れを現実にしていく。
「ローグは?」
「一人の方が楽なんだよ。お前は遅いし、よく腹を減らす。仕事中に霧も出す」
「ローグ、霧使う」
「頼んでない」
「薬、運んだ」
「頼んでない」
「夜、いた」
ローグは答えられなかった。
フィルは戦いの役に立つから残りたいのではない。ローグが役に立つから一緒にいるのでもない。
それが分かるほど、失うのが怖くなった。
フィルは鼻を鳴らした。
「うそ。置いていく匂い。こわい匂い」
ローグは袋の口を強く縛った。
怖いのはフィルではない。フィルを巻き込むことだ。そう言えば済むはずなのに、口にすると自分が正しいことをしているようで腹が立った。
黒刃の仲間たちも、ローグのためだと言った。戦えない斥候を危険から外すのだと。
あの時、自分は選択を奪われた側だった。
今は同じ言葉で、フィルを切り離そうとしている。
相手のためという言葉は、相手の選択を奪う時ほど便利になる。
フィルが近づき、ローグの手を握った。
「こわい。でも、行く」
「どこへ」
「ローグと一緒に」
「俺が間違ってもか」
フィルは少し考えた。
「間違ったら、言う」
「何て」
「うそ」
「それしかないのか」
「一人でやるな、も言う」
ローグは目を伏せた。フィルはもう、守られるだけの相手ではなかった。
その手は震えていた。何も分からず縋っているのではない。怖いと知った上で、自分の行き先を選んでいる。
ローグは長く息を吐き、荷物の結び目を解いた。
「……分かった。逃げない」
「逃げない?」
「訂正だ。逃げる時は二人で逃げる。今は立つ」
ローグは伏せていた組合の依頼状をフィルへ渡した。
「読めるか」
フィルは首を振る。
ローグは依頼状を声に出して読み、報酬欄の二つの名前を指した。
「これは俺の仕事じゃない。俺たちへ来た仕事だ。受けるかどうか、お前が半分決めろ」
フィルは紙の匂いを嗅いだ。
「シャドウ、いる?」
「いるだろうな」
「こわい」
「俺もだ」
ローグが初めて恐怖を否定しなかった。
フィルは依頼状へ爪で小さな印をつけた。
「受ける。一緒に帰る」
「契約成立だ」
守る側と守られる側ではない。
二人とも帰ることまで含めた、最初の仕事になった。
ローグは報酬欄を二つに割り、必要経費も半分ずつ書こうとした。
フィルが紙を押さえる。
「ごはん、ローグ多い」
「俺は育ち盛りなんだ」
「うそ。フィルも食べる」
結局、食費は共同、残りを折半にした。
仲間とは命を預ける大きな言葉だけではない。食べる量や道具の代金を話し、片方だけが損を引き受けないところから始まる。
黒刃ではローグが黙って立て替えていた費用も、今度は最初から二人の帳面へ書いた。
ローグは老薬師への手紙を火へ入れた。紙が丸まり、灰になる。
別れるために用意した道具を床へ並べ直す。
光を反射する銀粉。影の術式を記録する鏡片。フィルの霧を入れておく空の小瓶。黒い針を包んだ布。
逃げる荷物ではなく、敵を調べる装備へ組み替える。
「シャドウは俺の動きを読む。なら、俺が一人で決めた作戦は全部読まれる」
ローグは鏡片を三枚置いた。
「一枚選べ」
フィルは真ん中を指す。
「なぜそれだ」
「匂い、同じ」
ローグには違いが分からない。自分に見えない基準で選ばれた一枚を、作戦の中心にする。
「これをお前が持て。使う時も、お前が決めろ」
フィルは鏡片を外套の内側へしまった。
初めて、ローグが詳細を知らないまま任せた役目だった。
「まず、この街を出る。だがシャドウに追わせるんじゃない。こっちから居場所を見つける」
「どうやって?」
「あいつが残した針は、お前へ向いていた。裏を返せば、針の影はあいつへ続いている」
ローグは黒い針へ銀粉を振る。粉の一部だけが空中へ浮かび、窓の外へ細い線を引いた。
線は港の旧市街へ向かっている。
人が減り、路地と地下水路が複雑に重なる場所だ。斥候を追い込むには、よくできた舞台だった。
「戦う?」
「必要ならな。嫌なら離れていい」
「一緒に決める」
その言葉に、ローグは一度だけ頷いた。
地図の赤い線を指で消し、青い線へ重ねる。
二人は荷物を背負った。
フィルが先に扉を開ける。
ローグは一度だけ空になった隠れ家を振り返った。戻れる保証はない。それでも、誰かを置いて一人で消えるよりは怖くなかった。
フィルが外から呼ぶ。
「ローグ。遅い」
「今行く」
待つ側ではなく、待たせる側になった声に答え、ローグは扉を閉めた。
閉じた扉の下から、一筋の影だけが光とは逆の方角へ伸び、二人のあとを追った。
決意をしただけでは、敵は待ってくれない。




