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第017話 シャドウが動く

 朝になっても、フィルの影だけが夜の色を残していた。


 細い糸のような黒が足首へ絡み、鼓動に合わせて脈を打つ。白い霧を出すたび、影はそれを吸って濃くなった。


 ローグは短剣で切り払った。刃は床を叩き、影をすり抜ける。


「術式の核がない」


 次に銀粉を振りかけた。


 影へ触れた粉は青く光り、ローグは糸の端を追って窓際へ走る。そこには昨日仕掛けた鏡片があった。


 見つけたと思った。


 鏡片を裏返した瞬間、粉が黒く弾けた。


 細い影がローグの指へ巻きつき、黒刃の会議室を映す。ダリウスではなく、黙っていた三人の顔だけが何度も近づいた。


 呼吸が止まり、短剣を落とす。


 フィルが霧で指を包まなければ、ローグは自分で影を腕へ引き込んでいた。


「ローグも、捕まった」


「ああ。読み違えた」


 シャドウはフィルだけを狙っていない。助けようと急ぐローグの恐怖まで、最初から罠に使っていた。


 正しい解除法を知っているふりはできなかった。


 前の罠とは違う。これはすでにフィルの内側へ入り込んでいる。


 昨夜、足元へ伸びた逆向きの影。あの時に触れられたのだ。


 ローグは窓を開け、朝日を入れた。影は薄くならない。油灯を足元へ置いても、炎の方へ向かって伸びた。


 光で消える影ではない。


 恐怖を餌にして、人の内側へ根を張る術だ。


『人間は、お前を捨てる』


 霧の向こうからシャドウの声がした。


『今も逃げ道を数えている。お前を置く場所を探している』


 フィルの鼻には、焼かれた手紙の灰と、地図へ残った薬草の匂いが届いた。シャドウの言葉と、ローグが本当に準備した別れが重なる。


『お前は知っている。群れは、守ると言ってお前を置いていった』


 フィルの呼吸が止まる。


「黙れ」


『その男は恐れている。お前を。裏切りを。失うことを』


 フィルがローグを見た。瞳の奥に薄い黒が滲んでいる。感情を嗅ぐ力が歪められ、ローグの中にある恐怖だけが強く届いているのだ。


「ローグ、こわい」


「俺がか」


 フィルは答えられない。目の前のローグと、匂いの中にいるローグが違って見える。


 黒い糸が足首から膝へ上がり、霧の中に、走り去る白い狼たちの背中が浮かんだ。


 胸の奥を刃で抉られたようだった。


「違う」と言えば、また嘘になる。


 信じろ、と命じるのは簡単だ。だが黒刃で、信頼という言葉が服従を求めるために使われるところを何度も見た。


 ローグは両手の短剣を床へ置いた。


 武器を捨てても、フィルの震えは止まらない。


 だからローグは説明を始めた。言い訳ではなく、隠していた事実を一つずつ。


「北の村へ置くつもりだった。手紙も書いた。俺だけ南へ行けば、あいつがお前を追わないと思った」


「捨てる?」


「そう見えて当然だ」


「俺を信じろとは言わない」


 フィルの肩が揺れる。


「俺は逃げたい。お前を失うのも怖い。あいつの言うことは、全部が嘘じゃない」


「だから、今の俺一人で切るのは無理だ」


 ローグは落とした短剣を拾わなかった。


「お前に残るか逃げるかを選ばせる。俺にも、助けを借りるか一人で失敗するかを選ばせろ」


『ならば離れろ。その方が傷つかずに済む』


「でも、選ぶのはあいつじゃない。俺でもない。お前だ」


『選ばせるふりだ。いずれ危険になれば、また勝手に決める』


 ローグの胸に、その言葉は正しく刺さった。


 同じ過ちをしない保証はない。長く一人で生きてきた癖は、決意一つでは消えない。


「やるかもしれない」


 フィルが顔を上げる。


「その時は止めろ。怒れ。離れてもいい。俺が正しいと決めるな」


 ローグは手を差し出さなかった。近づきもせず、出口を空ける。


「逃げるなら止めない。ただ、俺はここから逃げない」


 フィルは開いた出口を見た。


 外へ出れば、この黒い声から離れられるかもしれない。けれど一人で走れば、夢の中と同じになる。


 鼻を澄ます。


 恐怖の匂いは強い。その奥に、薬を運んだ夜、床で見張っていた夜、罠から抱き上げた時と同じ匂いがある。


 守りたいという匂いだった。


 長い沈黙のあと、フィルが一歩だけ近づいた。


 二歩目は震えていた。


 三歩目で、細い指がローグの外套の端を掴む。


「こわい。でも、いる」


 フィルが外套を掴むと、足首の黒い糸が一本だけ切れた。


 切れた糸は床へ落ちず、黒い蛇のようにローグへ跳ねた。


 ローグは腕で受ける。冷たい痛みが皮膚を抜け、頭の奥へ刺さった。


 会議室で目を逸らした仲間たち。空の椅子。フィルが自分へ背を向けて走る幻。


 今度はローグの恐怖が増幅される。


「離せ」


 自分の口がフィルへ命じた。


 外套を掴む指が震える。


 ローグは短剣へ手を伸ばしかけ、床に置いたまま止めた。恐怖に従えば、フィルの手を振り払う。シャドウが望む通りになる。


「今のは、俺の言葉じゃない」


「声、ローグ」


「声はな。選んだ言葉じゃない」


 フィルは匂いを確かめる。


「うそじゃない」


 白い霧が二人の間を満たし、ローグの腕へ食い込んだ黒い糸を包む。糸は霧を吸おうとしたが、鏡片が内側から光を返した。


 一度目は、霧まで黒く染まった。


 フィルが苦鳴を漏らし、霧を引く。恐怖を消そうとしたため、術式に餌として吸われたのだ。


「消さなくていい」


 ローグは震える腕を鏡片の前へ置いた。


「怖いまま映せ。隠さなければ、こいつは歪められない」


 フィルは頷き、薄い霧だけを鏡へ流した。


 フィルが自分で選んだ一枚だ。


 反射された影が壁へ焼きつき、旧市街へ続く黒い道筋を示す。


 信じ切ったからではない。


 怖いまま、自分で選んだからだ。


 床に置かれた短剣を、ローグは拾った。


 今度はフィルを遠ざけるためではなく、二人で進む道を開くために。


「場所が分かった」


「行く?」


「ああ。ただし、俺がまた勝手に走ったら」


「噛む」


「言葉で止めろ」


「両方」


 窓の外で霧が濃くなり、旧市街への道だけが黒く口を開けた。


 霧の向こうで、誰かが小さく舌打ちした。


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