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第018話 正面から

 霧港の路地は、すべて黒い影で塞がれていた。


 屋根へ上がれば煙突の影が槍に変わり、地下水路へ降りれば水面から腕が伸びる。ローグが三日前に用意した退路まで、正確に潰されていた。


 港へ出る道には影兵が六体。北門の鐘楼には黒い弓兵。人のいる市場へ向かえば、巻き込まれた市民の影まで敵に変えられる。


 シャドウは逃げ道だけでなく、ローグが選ばない道まで知っていた。


「随分、俺を調べたらしいな」


「調べる必要はない。影は持ち主より正直だ」


 ローグの足元で、自分の影が細く揺れた。


「逃げることだけがお前の才能だ」


 シャドウが屋根の縁に立つ。


 顔は見えない。だが、笑っていることだけは分かった。


「褒め言葉に聞こえるな」


 ローグは銀粉の線を追い、旧市街の中央まで来ていた。


 本来なら先に地形を調べ、罠を置き、相手の退路を断つ。だが道筋そのものがシャドウの誘導だった。準備をする時間を与えれば、その準備まで利用される。


 フィルは鏡片を握り、周囲の匂いを探っている。


「シャドウ、いっぱい」


「全部同じか」


「違う。でも、全部こわい」


 本体の感情を薄め、街中の恐怖へ混ぜている。フィルの力を封じるための仕掛けだ。


 ローグは煙玉を投げ、横道へ走る。二歩目で壁の影が刃になった。身を捻って避けると、外套が裂ける。


 最初の計画は、三十歩で潰れた。


 ローグは銀粉を撒き、影の本体だけへ付着させようとした。ところが粉は路地中の影へ均等に吸われ、六つの偽の道筋を作った。


 その一本を選んだ瞬間、屋根から黒い網が落ちる。


 フィルが霧で網を押し返したが、鉤の一つが肩を裂いた。


「怪我は」


「浅い。次、決めて」


 フィルは痛みを隠さなかった。それでも撤退をローグへ丸投げしない。


 ローグは偽の銀線を見た。準備した道具を信じすぎた。シャドウは道具へ頼る順番まで知っている。


 一度目の策を捨てなければならなかった。


「戻る道、ある?」


 フィルが尋ねる。


 ローグは背後を見た。入ってきた路地は壁へ変わり、市場の声も消えている。


「ない。作る」


 強がりではなく、失敗を認めた上での答えだった。


 ローグは自分の外套を裂き、フィルの肩の傷へ巻く。追跡用の銀粉は半分失い、煙玉も残り二つ。


 次の策は、準備万全の斥候としてではなく、減った道具と負傷者を抱えた状態で組まなければならない。


「俺が速すぎたら言え。傷が開いたら止まる」


「シャドウ来ても?」


「来てもだ。二人で進むと決めて、一人だけ歩けなくしたら笑い話にもならない」


 勝利より先に、撤退不能な場所で互いを生存人数へ入れた。


 次の角には糸罠。跳び越えた先には影兵。


 ローグは一体の足を払い、二体目の刃を壁へ誘導する。影同士がぶつかり、路地の壁に亀裂が走った。


 フィルの手を引いて亀裂の向こうへ抜ける。だがその先には、先ほど通った井戸があった。


 空間まで影で折り畳まれている。


 ローグは壁へ印を刻んだ。


 次の角にも同じ印がある。


「円じゃない。影の中だけを繋いでる」


 なら、影をなくせば道は戻る。


 ローグは屋台から油布を奪い、火をつけて路地の中央へ投げた。複数の光源が影を細かく分断し、折り畳まれた壁が一瞬揺らぐ。


「今だ」


 フィルが白い霧で光を拡散する。路地全体が淡く明るくなり、井戸の幻が消えた。


 だが出口には、シャドウ本人が待っていた。


 逃走経路を試すたび、フィルの呼吸が荒くなる。ローグが正解を探し続ける限り、シャドウはその正解を先回りできる。


「ローグ」


「後ろにいろ」


 言った直後、フィルの指が外套から離れた。


「また、一人で決める?」


 ローグは振り返った。


 責める声ではない。ただ確認している。


「悪い。癖だ」


「後ろにいる。でも、見る」


「分かった。俺が倒れたら逃げろ、とは言わない。どうするか自分で決めろ」


 フィルを庇い、もう一度周囲を見る。


 逃げ道はない。


 いや、逃げ道を失ったのではない。逃げることだけへ考えを縛られている。


 ローグは腰の投擲ナイフを鞘ごと地面へ落とした。退路を作るための煙玉も捨てる。左右の短剣を抜き、正面に構えた。


 投擲ナイフは距離を取る武器だ。煙玉は姿を消す道具だ。


 どちらもローグを生かしてきた。どちらも今は、逃げることしか考えられない自分を象徴していた。


 捨てるのは戦術ではない。


 戦い方を一つに決めつける古い自分だった。


 シャドウの笑いが止まる。


「お前が正面から来るか」


「斥候が正面に立っちゃいけない決まりはない」


「不得手な場所で死ぬだけだ」


「得意な逃げ方を全部見せた相手に、同じ手を使うほど馬鹿じゃない」


「珍しいものが見られてよかったな。見物料は命で払え」


 ローグは背後のフィルへ言った。


「俺の後ろにいろ。ただし、出る時は自分で決めろ」


「うん」


 守るために閉じ込めることはしない。その一言だけは、戦いの中でも曲げたくなかった。


 シャドウが屋根から音もなく降りる。


 路地の両端を影兵が塞ぐ。逃げ場のない細い空間で、ローグは呼吸を整えた。


 影兵が同時に踏み込む。


 ローグは正面の一体へ突進し、刃を受ける直前に身を沈めた。後ろの影兵が放った槍が、前の一体を貫く。


 倒したのではない。敵の力を敵へ使わせた。


 二体目の足元へ油を滑らせ、火を近づける。影の身体が細くなった隙に、フィルの霧が輪郭を固めた。


 ローグの短剣が核を砕く。


 正面から戦っても、斥候の技術を捨てる必要はない。


 逃げるために磨いた観察力を、立ち続けるために使えばいい。


 正面戦闘の経験がないわけではない。黒刃の後ろで、何度も仲間の死角を埋めてきた。ただ、自分が中心に立つことを避けてきただけだ。


 今は背後にフィルがいる。


 だが守るためではなく、共に選んだ位置としてそこにいる。


「裏切られ、捨てられ、信じることをやめた。お前は俺と同じだ」


 両腕から黒い刃が生まれた。


「なぜ今更、違うふりをする」


「答えは、お前を倒してから考える」


 シャドウの刃が二つに分かれた。


 一本はローグへ、もう一本は背後のフィルへ向く。


 どちらを守るか選ばせる攻撃だ。


 ローグはフィルを見なかった。


 任せると決めたからだ。


 フィルもローグを見ず、鏡片で影刃を受けた。


「答えのない者に、俺は倒せない」


「なら戦いながら見つける」


 二人の影が重なり、刃がローグの喉元へ走った。


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