第019話 影はすべて知っている
短剣が影刃を受けた瞬間、ローグの足元から二本目の刃が生えた。
跳ぶ。着地先へ投げ縄。切って転がれば、死角から毒針。
全部、見覚えのある動きだった。
黒刃にいた頃、ローグが仲間へ教えた対人戦術。相手の視線を誘導し、逃げる方向へ罠を置き、負傷した側から崩す。
シャドウはそれを、一人で完全に再現している。
「趣味が悪いな」
「お前の技だ」
ローグは壁へ短剣を投げた。刃を煉瓦へ反射させ、背後を狙う得意技。しかしシャドウは影へ沈み、同じ角度から刃を返した。
肩が裂け、血が飛ぶ。
傷は浅い。そう判断した直後、黒い冷気が肩から指先へ走った。
影刃の傷は血だけでなく、感覚を奪う。左手の短剣が重くなり、握力が落ちる。
シャドウはローグが右手を軸に切り替える瞬間まで知っていた。右側から三本目の刃が来る。
ローグは避けきれず、頬を切られた。
三撃目は避けたつもりだった。
だが背後で、フィルの鏡片が砕けた。
ローグを狙った刃は囮で、本命は二人の作戦を繋ぐ道具だった。白い破片が路地へ散り、フィルの霧が一瞬乱れる。
「鏡、なくなった」
「道具がなくても、お前の鼻は残ってる」
そう答えながら、ローグは自分へも言い聞かせた。
黒刃の斥候だった頃は、準備した道具が壊れれば失敗だと思っていた。今は失敗したあと、隣にいる者と次を選べる。
ただし、その次を選ぶ時間は敵がくれない。
シャドウの刃がフィルへ走る。
ローグは肩で受け、今度は深く肉を裂かれた。
代わりに守るだけでは、また同じだ。それでも間に合わない一撃を見過ごすこともできない。
血を流しながら、ローグは何を任せ、何を引き受けるかを選び直した。
一手ごとに、過去の癖が首を絞める。
フィルが霧を伸ばそうとする。
「まだだ!」
ローグは制した。白い霧を広げれば、シャドウはフィルの位置を逆算する。まず影の核がどこへ移るか見極める必要がある。
だが説明する余裕がない。フィルには再び、命令だけが届いた。
シャドウは技だけを真似ているのではない。ローグが傷を負った時に左へ逃げる癖も、次に煙玉へ手を伸ばす順番も知っている。
過去の自分と戦っている。
しかも相手には、守るものがない。
「違う」
フィルが小さく言った。
「何がだ」
「シャドウ、何もない匂い。守らない。だから強くない」
シャドウの刃が一瞬止まった。
その反応を、ローグは見逃さなかった。
「聞いたか。狼に弱いと言われてるぞ」
「獣の評価に意味はない」
「なら、なぜ怒る」
シャドウの輪郭が揺れる。
言葉で崩せるほど弱くはない。だが空虚を選んだことを誇っているのではなく、正しかったと証明し続けなければならない。
そこに隙がある。
何も持たないことは弱点にならないと、シャドウ自身が信じたがっている。
フィルの足元で黒い糸が増えた。
『見ろ。あれはお前を囮にする』
フィルの瞳に再び黒が滲む。
ローグは煙玉を割り、反対側の路地へ走った。
煙の中でフィルへ手信号を送る。待機。三呼吸。右へ。
黒刃で使っていた合図を、フィルが知るはずはない。
それでもフィルなら意図を嗅ぎ取ると、勝手に期待した。
「こっちだ、影野郎!」
シャドウが追う。フィルから離すための囮だった。
昔と同じだ。一人で傷を引き受け、勝手に守ったつもりになる。選ばせると言った直後に、その選択を奪っている。
気づいた時には遅かった。
フィルは合図を理解できず、その場に残っていた。シャドウの黒い糸が彼女の霧を絡め取る。
ローグは相手へ選択を返すと言いながら、必要な情報を渡していない。
黒刃でも同じだった。
自分だけが罠を理解し、短い命令で仲間を動かそうとした。伝わらなければ相手が無能だと腹を立て、結局は一人で処理した。
ダリウスの傲慢さを嫌いながら、自分も別の形で仲間を信じていなかった。
信頼ではない。ただの無茶振りだった。
シャドウの刃が脇腹を掠め、ローグは膝をついた。
「結局、お前は一人だ」
「そう見えるなら、目が悪い」
ローグは動かない右脚へ短剣の柄を打ちつけた。痛みで感覚を戻し、立ち上がる。
シャドウの刃を受け、一本をわざと外へ流す。
刃が路地の壁を裂き、朝の光が差し込んだ。
影が薄くなる。
完全に負けたわけではない。まだ考え、次の一手を作れる。
強がって立とうとするが、右脚に力が入らない。シャドウは急所を外し、ローグが自分の失敗を理解する時間を与えている。
殺すより、同じ存在だと認めさせたいのだ。
影刃が振り上げられる。
その時、白い霧が路地を満たした。
フィルが黒い糸を踏み越えてくる。
「ローグ、こわい」
「来るな!」
「でも、怖い匂いの奥。守りたい匂い。ずっと、あった」
「合図、分からなかった」
「……悪い」
「次、言う」
「次があると思ってるのか」
「ある。二人だから」
フィルはローグの肩から流れる血の匂いを追い、その周囲だけ霧を薄くする。視界を奪わず、敵の影だけを濃く浮かべるためだ。
「次。何する?」
今度はローグが説明する。
「俺が正面から核を引き出す。お前は本物の匂いを見つけて、霧で囲め。俺が倒れても、すぐ助けに来るな。核を逃がすな」
「分かった」
「怖いか」
「こわい。でも、分かった」
命令ではなく、共有した作戦になった。
黒く濁っていた瞳が澄む。
シャドウはローグの恐怖を見せた。フィルは、そのさらに奥にある感情を自分で選んだ。
「一人でやるな」
「分かってる。だからもう一つ頼む。俺が左手を落としたら、肩の傷を霧で縛れ。血が止まらなくなる」
「戦いながら?」
「戦いながらだ。俺は核を見る。お前は匂いと、俺の血を見る」
フィルは顔をしかめた。
「仕事、多い」
「報酬はあとで半分だ」
「焼き菓子も」
「生きて帰ったらな」
初めて、勝ったあとの約束を作った。
フィルの霧は、先ほどまでのように路地全体へ無秩序に広がらなかった。ローグの周囲を避け、シャドウが立つ場所だけへ細く流れる。
感情の匂いを追う霧だ。
シャドウがどれだけ分身を生んでも、空虚を隠したいという焦りだけは一つしかない。
フィルはローグの隣へ立ち、両手を広げた。白い霧が影へまとわりつき、隠れていた人の輪郭を浮かび上がらせる。
「ローグ、一人にしない」




