第020話 俺はお前にはならない
白い霧に輪郭を暴かれ、シャドウが初めて一歩退いた。
影から三つの分身が生まれ、別々の方向へ走る。
一体は屋根へ、一体は井戸へ、一体はフィルの背後へ。
これまでのローグなら、最も危険な背後の影へ飛びついていた。だがフィルはすでに気づいている。自分で霧の壁を作り、その刃を受け流した。
ローグは助けに戻らない。
任せることもまた、共に戦うことだと信じる。
「右、うそ。後ろも、うそ」
フィルが言う。
ローグは二つの影を無視し、左の壁へ短剣を投げた。金属が肉を掠める音。黒い外套が裂け、本体が路地へ転がる。
「面倒な鼻だろ」
「ローグより、役に立つ」
「言うようになったな」
「誰かの真似」
「教育に悪い奴がいるらしい」
軽口を交わす間にも、二人は別々の方向を見ていた。ローグは影の動き、フィルは感情の匂い。
同じものを見る必要はない。違うものを見ているから、互いの死角を埋められる。
フィルの霧が囮を暴き、ローグが本体を追う。逃げ道を読む力を、今度は追い詰めるために使う。ローグが前へ出すぎればフィルが霧で遮り、フィルへ刃が向けばローグが軌道を逸らす。
一人ではできない戦いだった。
それでも最初の連携は噛み合わなかった。
ローグが「右」と叫び、フィルは敵から見た右へ霧を流した。シャドウの本体ではなく分身を固め、黒い刃が二人の間を抜ける。
ローグの脇腹が裂けた。
「俺から見て右だ」
「先に言う」
「そうする」
誰が悪いかを争う時間はない。言葉が足りなければ足す。
二度目の「俺から見て右」で、フィルの霧とローグの短剣が同じ影を捉えた。
完璧に理解し合うから仲間なのではない。
間違えたあとも、相手のせいにせず修正できる。それがシャドウには真似できない強さだった。
シャドウは地面へ沈み、ローグの真下から現れた。
ローグは避けない。短剣で刃を挟み、身体ごと影の腕を止める。
「今だ」
今度は言葉で伝えた。
フィルの霧がシャドウの背後へ回り、影と地面の境界を白く塗り固める。潜る場所を失ったシャドウが、初めて完全な人の姿で路地へ立たされた。
追い詰められたシャドウの影が膨れる。
路地の壁に《黒刃》の仲間たちが映った。笑い、杯を交わし、背中を預けた記憶。次の瞬間にはローグを囲み、武器を向ける。
幻の治療師が、あの日と同じように目を伏せる。
盾役が「仕方なかった」と呟く。
ダリウスが手を差し出した。
『戻れ。今度こそ、お前を必要としてやる』
必要とされることを、ローグは長く求めていた。
だから追放が痛かった。
だからフィルを守ることで、自分の価値を証明しようとした。
『また裏切られる』
古い声が胸を刺す。
フィルの手が一瞬止まった。ローグは幻から目を逸らさない。
「そうかもな」
「なら、なぜ信じる」
「信じたって、裏切られる時はある。絶対に裏切らない奴なんて知らない」
「フィルも、お前を捨てる」
「かもしれない」
フィルが一瞬だけローグを見る。
「俺だって、こいつを傷つけるかもしれない。さっきみたいにな」
否定しない言葉は、シャドウの幻より痛かった。
だが同時に、嘘の匂いがしなかった。
「ならば、孤独を選べ」
「断る」
ローグは一歩踏み込んだ。
「裏切られたあとも、俺が選び直せる。誰と歩くかも、どこで立つかもな」
「そして間違えたら、謝る。止められたら聞く。完璧じゃなくても、やり直せる」
「それが信頼だと言うのか」
「知らん。俺たちは今、それを作ってる途中だ」
霧の向こうでフィルが頷く。
ローグは影の核へ短剣を打ち込み、フィルの霧が傷口を白く固めた。シャドウの身体が崩れ、路地の闇へ退いていく。
核から黒い欠片が散る。その一つに、泣いている人間の目が映った。
別の欠片には、黒い首輪をつけられた少年が映った。
影の術式を教え込まれ、泣くたびに灯りのない部屋へ戻される。最後には、自分から誰も信じないと言うまで扉を開けてもらえなかった。
記憶は一瞬で砕けた。
シャドウが孤独を選んだのではなく、孤独だけが安全だと教え込まれた可能性がある。
それでも、今ここでフィルへ同じ孤独を押しつけた責任は消えない。
理解することと、許して刃を収めることは別だった。
ほんの一瞬だった。
シャドウもまた、生まれた時から影だったわけではない。
ローグは追撃の短剣を構えたが、投げなかった。憐れんだからではない。今ここで倒し切るより、逃げる先を知る方が重要だと判断した。
石壁の亀裂へ消える影に、目印の銀粉を付ける。
銀粉は一度だけ青く光り、すぐ黒へ呑まれた。
完全には追えない。それでも次に近くへ現れれば、同じ反応を拾える。
シャドウは倒れていない。
だが、ローグを自分と同じだと証明する戦いには負けた。
「俺たちは同じ場所から来た」
ローグは消えゆく影へ告げた。
「でも俺は、お前にはならない」
沈黙のあと、シャドウの声が遠ざかった。
「……そうか。お前は、そちらを選ぶのか」
その声にあったのは怒りではなく、置いていかれた者の寂しさだった。
影は完全には消えず、細い一筋となって石壁の亀裂へ逃げた。
ローグは追わなかった。膝から力が抜ける。
フィルが駆け寄ろうとして、一度止まった。
「来ていい?」
ローグは驚き、頷く。
「ああ。頼む」
フィルは初めて、自分から触れる前に許可を聞いた。
ローグも初めて、助けが必要だと口にした。
倒れかけた身体を、フィルが外套を掴んで支えた。
「重い」
「怪我人に最初に言う台詞か、それ」
「一人でやるから」
「悪かった」
フィルが目を丸くする。
「何だ」
「ローグ、謝った」
「二度と言わない。覚えておけ」
「うそ」
返す言葉がなく、ローグは笑った。
旧市街を出る頃には、折り畳まれていた路地が元へ戻っていた。
朝の市場から、人々の声が聞こえる。戦いが街全体へ広がらなかったことを確認し、ローグはようやく息を吐いた。
路地の入口には、組合の巡回員と住民が集まっていた。
折り畳まれていた街路が戻り、影へ閉じ込められていた三人が救い出される。皆、自分の恐怖を見せられ、同じ場所を歩き続けていたという。
巡回員がローグへ治療を勧め、記録板を差し出した。
「旧市街の失踪事件、解決者名を」
ローグは自分の名だけを書きかけ、止めた。
隣の欄へフィルの名を書く。
「二人だ」
フィルは文字を読めなくても、自分の名の形を覚えようと指でなぞった。
フィルが肩を貸しながら尋ねる。
「勝った?」
「逃がした」
「負けた?」
「俺たちが決めることを、あいつに決めさせなかった」
それを勝ちと呼べるかは分からない。
けれどローグは、もう一人で答えを出そうとはしなかった。
「お前はどう思う」
フィルは少し考えた。
「勝った。ローグ、謝ったから」
「判定基準がおかしい」
二人の笑い声が、朝の霧へ溶けた。




