第021話 黒刃との再会
街道脇の枯れ木に、赤い布が三度結ばれていた。
一つ目は負傷者あり。二つ目は退路なし。三つ目は救援を求む。
《黒刃》の救難信号だ。結び方を教えたのはローグだった。
布の端には、魔術師が使う青い染料がついている。結び目は乱れ、最後の一つだけ上下が逆だった。
合図を出した時点で、手が震えるほど追い詰められていたのだ。
「行くの?」
フィルが尋ねる。
「面倒だから無視する」
そう言いながら、ローグは布に残った血の乾き具合を調べ、森へ入った。
「うそ」
「怪我人を放っておくと寝覚めが悪いだけだ」
「嫌いな人?」
「嫌いだ」
「助ける?」
「嫌いな奴が死んでも、好きになるわけじゃない」
フィルは少し考え、ローグの横へ並んだ。
「分からない」
「俺もだよ」
谷間では《黒刃》の団員たちが黒い鎖に囲まれていた。地面へ打ち込まれた術式杭が輪を作り、動くほど鎖が縮まる。影から生まれる兵が、その外側を歩いていた。
盾役は片膝をつき、鎖が食い込んだ腕から血を流している。治療師は魔力切れで顔色が白い。魔術師だけが最後の火球を手に残し、誰へ向けるべきか迷っていた。
ダリウスは輪の中央で剣を構えている。
隊長として皆を守っているように見えるが、彼が動くたび鎖は全員の首へ近づいた。
ローグが警告した罠へ、また正面から踏み込んだらしい。
「動くな!」
ローグの声に、ダリウスが反射的に一歩出る。
鎖が締まり、治療師が苦鳴を上げた。
「だから動くなと言った」
「ローグ!」
ダリウスが顔を上げる。安堵した表情がすぐ命令する者の顔へ戻った。
「罠を解除しろ。早く――」
言いかけて、周囲の負傷者を見た。
「……頼む。仲間を助けてくれ」
ローグは団員たちを順に見た。自分の追放に目を逸らした顔もある。魔術師が口を開きかけた。
「あの時は――」
そこまでで声が止まる。
言い訳を探しているのか、謝る資格がないと思っているのか、ローグには分からない。
「今は話すな。呼吸を合わせろ」
責めるのも許すのも、全員が生きて輪を出てからだ。
怒りは残っている。
だが負傷者の血に、昔の恨みは混じらない。
「フィル、鎖の匂いは」
「三つ。真ん中だけ、うそ」
「左の杭へ霧を。俺が右を抜く」
「真ん中は?」
「触るな。解除したふりをして全員を殺す偽核だ」
フィルは頷き、霧を地面すれすれに流した。影兵が霧へ刃を振るうたび、輪の外側にある本当の杭がわずかに光る。
「黒刃。三つ数えたら全員伏せろ」
「俺に命令するな」と言いかけたダリウスを、盾役が睨んだ。
今度は誰も、ローグの警告を無視しなかった。
二人は同時に動いた。フィルの霧が影兵の視界と輪郭を奪い、ローグが偽の核を避けて岩陰の術式杭を抜く。
鎖が緩む。
最後の杭には、解除者を狙う毒針が仕込まれていた。ローグは鏡片で軌道を変え、ダリウスの剣へ当てる。
毒針が剣身を黒く染める。
「これを素手で抜こうとしてたのか」
ダリウスは答えなかった。
「自分の剣くらい、役に立てろ」
術式が砕け、《黒刃》は谷から脱出した。
谷の外では、救難信号を見た隊商と冒険者組合の巡回員が待っていた。
全員が、最後の杭を抜いた者を見ている。
巡回員は記録板へ書き込んだ。
「救助実施者、正規調査員ローグ=クロウ。協力者フィル。被救助者、《黒刃》四名」
以前なら《黒刃》の功績として処理された場面だった。今度は誰が罠を見抜き、誰の判断へ全員が従ったか、第三者の記録へ残る。
「異議はありますか」
盾役が首を振った。
「ない。全部その通りだ」
魔術師も続いた。
「ローグの警告がなければ、全員死んでいた」
追放の日には得られなかった証言だった。
ローグは礼を言わない。遅れて届いた事実を、恩に変えるつもりはなかった。
森へ入ったところで治療師が倒れた。フィルが警戒して唸る中、ローグは彼女を木陰へ運び、毒消しを置く。
治療師は震える指で瓶を受け取った。
「ローグ。私、あの時……」
「今、聞けば許してもらえると思うな」
「違う。ただ、謝りたかった」
「なら自分が楽になるために謝るな。次に誰かが濡れ衣を着せられた時、黙るな」
治療師は泣きそうな顔で頷いた。
ローグは許すとは言わなかった。
ダリウスが剣を杖に立ち上がる。
「戻れ、ローグ。副団長の席を返す。報酬も以前の倍にする」
「返す?」
ローグは笑った。
「俺を追放した判断は正しかった。お前たちじゃ、俺を御せない」
「俺たちは仲間だった」
「仲間なら、席や報酬を餌に戻そうとする前に言うことがある」
ダリウスの口が動く。
だが「悪かった」という四文字は出てこなかった。
「何だと」
盾役が、ダリウスとローグの間へ立った。
「もうやめろ。助けてもらった直後まで、あいつを道具として数えるのか」
「隊長へ口答えする気か」
「隊長だから従った。その結果があの谷だ」
盾役は胸の黒刃章を外した。
「俺は今日で抜ける」
魔術師も章へ手をかける。
ローグが奪ったのではない。三人が、自分でダリウスの隣を離れ始めた。
「助けたのは《黒刃》じゃない。そこで死にかけてた馬鹿どもだ。借りも恩も、これで終わりだ」
「ローグ」
魔術師が呼んだ。
今度は謝罪の言葉が出るかもしれない。
ローグは振り返らなかった。聞く準備ができていないことも、自分で選んでよかった。
ローグは背を向ける。フィルが当然のように隣へ並んだ。
かつての仲間が呼び止める声はなかった。
森を抜けたところで、フィルが振り返った。
「置いてきた?」
「歩ける奴らだ。自分で帰る」
「かなしい匂い」
「誰の」
「みんな」
ローグは答えなかった。
ダリウスも、治療師も、魔術師も、それぞれに後悔や屈辱を抱えている。だからといって、ローグがそれを慰める義務はない。
許すことと助けることは別だ。
許さないまま前へ進むこともできる。
「ローグも?」
「少しな」
嘘をつかなかったことに、フィルは何も言わない。ただ歩幅を合わせた。
もう、振り返る理由もなかった。
背後で救難信号の赤い布が風にほどけ、地面へ落ちた。
ローグは新しい結び目を作らなかった。




