第022話 フィルが笑った
救助した《黒刃》の負傷者を、ローグたちは近くの村へ運んだ。
村へ入る前、ローグはフィルへ尋ねた。
「人が多い。森で待つか」
フィルは家々から漂う煮込みの匂いと、遊ぶ子どもの声を聞いた。
「一緒に入る」
怖くないからではない。離れて待つより、自分で確かめたかった。
治療師の家が騒がしい間、フィルは井戸の脇に座っていた。村の子どもたちが柵の向こうから、銀色の髪と尖った耳を見ている。
一人が近づくと、フィルは唸った。子どもが飛び上がり、全員が柵の陰へ隠れる。
フィルも驚き、自分の口を両手で押さえた。
追い払いたかったわけではない。ただ、身体が先に反応した。
「見世物じゃないぞ」
ローグが言うと、子どもたちは散った。
「追い払わなくていい」
「人間、こわい」
「なら、こっちから近づかなくていい。逃げるかどうかは自分で決めろ」
「嫌われた?」
「知らん。子どもは転んでも五分後には同じ場所を走る。気にするだけ無駄だ」
ローグはそう言って井戸の反対側へ座った。間に一人分の空間を残す。
フィルが人間を試す時間を、ローグが埋めないためだった。
しばらくして、一番小さな少年だけが戻ってきた。両手で焼きたての丸パンを持ち、おそるおそる距離を詰める。
「これ、いる?」
少年は柵の手前で止まり、それ以上近づかなかった。
「母ちゃんが、怪我した人を連れてきてくれたお礼だって」
フィルには《黒刃》を助けた理由も、お礼を自分が受け取る理由もよく分からない。
「ローグに」
「おじさんには、もうあげた」
「誰がおじさんだ」
離れた場所からローグの声が飛んだ。
フィルはローグの背へ半分隠れた。
「毒は入ってない」
「ローグ、分かる?」
「知らん。だが毒を盛る奴は、たいていそんな震え方をしない」
少年の手も震えていた。怖いのは、お互い同じらしい。
フィルは少年とパンの匂いを何度も確かめ、ようやく半分を受け取った。
「ありがとう」
フィルはもう一度、少し大きな声で言った。
「ありがとう」
少年は聞き取ると、自分の胸を指さした。
「僕、ノア」
フィルも真似をする。
「フィル」
名前を教えても捕まらない。その小さな事実が、胸の中へ静かに積もった。
治療師の家から、《黒刃》の盾役が包帯姿で出てきた。
子どもたちは大きな男を見て逃げる。フィルもローグの背へ戻りかけた。
男は途中で止まり、武器を地面へ置いた。
「谷では助かった」
フィルは黙っている。
「霧がなければ、俺たちは死んでいた。ありがとう」
ローグではなく、フィルへ向けられた礼だった。
フィルは男の匂いを確かめる。恐怖、痛み、後悔。嘘はない。
「ローグ、助けた」
「ああ。お前もだ」
男は深く頭を下げ、武器を持って戻っていった。
その背後から、治療師も出てきた。
彼女はローグへ近づかず、フィルの前で膝をついた。目線の高さを合わせても、手は伸ばさない。
「谷で、あなたの霧を最初は魔物の術だと思った。怖かったから、ローグへ止めさせようとした」
フィルは鼻を動かす。
「今も、こわい?」
「少し。でも、怖いことを理由にあなたを傷つけていいとは思わない」
治療師は薬袋から、小さな軟膏を地面へ置いた。
「肩の傷に使える。受け取らなくてもいい」
フィルはすぐには拾わなかった。
断ってもよい形で差し出された物を、自分で選ぶ。
しばらくして軟膏を取り、ローグへ渡した。
「塗る」
「俺がか」
「届かない」
ローグは治療師ではなく、フィルから頼まれた仕事として受け取った。
ローグは何も口を挟まなかった。フィルの功績を自分のものにしないために。
言葉は小さく、少年には聞き取れなかった。それでも受け取ったことがうれしかったのか、少年が笑う。
フィルはその顔をじっと見て、口の端を左右ばらばらに持ち上げた。
ひどい顔だった。
ローグが吹き出すと、フィルが睨む。
「笑った」
「笑ってない」
「うそ」
少年がさらに笑い、遠くにいた子どもたちも戻ってくる。ただし誰も急には近づかず、フィルが嫌がらない距離に座った。
パンを分け、木の実を並べ、互いの名前を一つずつ言う。
一人の少女がフィルの耳を見て、「触っていい?」と聞いた。
フィルはすぐ首を振る。
少女は「分かった」と手を引いた。それだけだった。
嫌だと言っても、怒られない。捕まえられない。
子どもたちは、フィルが知らない遊びを始めた。小石を円へ投げ、入った数を競うだけの遊びだ。
ノアが小石を差し出す。
フィルはローグを見る。
「俺に聞くな。やりたければやれ」
最初の石は円を大きく外れた。子どもたちが笑い、フィルの霧が反射的に膨らむ。
だが笑いに悪意の匂いはない。
二投目は円の端。三投目は中央へ入った。
四投目の前に、村の外で馬が嘶いた。
フィルは石を落とし、霧を膨らませる。遊びを忘れ、井戸の陰へ身を隠した。
ただの荷馬車だった。
子どもたちは笑わず、ノアは落ちた石を拾って同じ場所へ置いた。
「まだフィルの番だよ」
怖がったことを責められない。戻るまで待ってもらえる。
フィルは霧の中から出て、もう一度石を握った。
今度は円を外した。
それでも自分から笑った。
子どもたちが歓声を上げる。
フィルも、自分が笑われたのではなく、一緒に笑っていたのだと分かり始める。
フィルは自分から、少女の髪飾りを指さした。
「きれい」
今度は少女が笑った。
フィルはもう一度、今度は力を抜いて口元を緩めた。
それは小さく、ちゃんとした笑顔だった。
人間が怖くなくなったわけではない。
ただ、人間の中に、怖くない者もいるかもしれないと思えた。
「笑い方、覚えたのか」
フィルはパンを齧りながら答える。
「ローグも」
「俺は前から笑える」
「悪い笑い」
「種類があるのか」
フィルは自分の頬を指さす。
「今の」
次にローグの口元を指す。
「今の。少し同じ」
ローグは否定しようとして、子どもたちの前ではやめた。
ローグは返事の代わりに、残りのパンを奪おうとして手を叩かれた。




