第086話 イゼベル戦・決着
セラフィーナは聖女の紋章を外した。
王宮を追放された日にも、手放さなかった印だった。
聖法院が自分へ何をしたか忘れないため。
聖女という役割を、誰かの都合だけで終わらせないため。
法衣の留め具から外し、白い床へ置く。
金属の触れる小さな音が、広間へ響いた。
イゼベルが笑う。
「ようやく分かったのね。聖女など、利用される器の名でしかない」
「この紋章は、聖法院が与えたものです」
セラフィーナは床の印を見下ろす。
「ですから返します」
胸元へ手を置く。
何もなくなった場所に、自分の鼓動がある。
「でも、私の祈りは返しません」
イゼベルの笑みが止まった。
「称号がなくても祈ると?」
「称号がないからではありません。私が選ぶから祈ります」
「まだ、そんなものを」
「信じています」
「あなたを縛ったものよ!」
白い糸が鞭のように襲う。
セラフィーナは杖を拾わない。
右手に白金の刃を作り、糸だけを切った。
群衆の胸へ繋がる線が一本消える。
石を握っていた兵士が、自分の手を見て震えた。
「俺は、何を」
「まだ動かないでください」
セラフィーナは答え、次の糸を切る。
イゼベル本人へ向けて刃を振らない。
魂へ埋まる支配核と、外へ伸びる線の境目だけを狙う。
細すぎる。
糸を一本切るたび、支配核はイゼベルの魂へ深く潜った。
「遅いわ」
イゼベルが両手を広げる。
「全員を解放する前に、この二人が死ぬ」
処刑台の鎖が締まる。
ガウェインの首元から血が流れた。
オズワルドは呼吸を止められ、杖へ手が届かない。
処刑台の上で王命書が開く。
『命令があるまで待機せよ』
文字が光り、ガウェインの身体を縛る。
四年前に従った命令と同じだった。
幻ではない。
騎士の誓約へ食い込み、逆らえば心臓を止める強制命令だった。
「ガウェイン様」
セラフィーナは助けろとも、耐えろとも命じない。
「あなたは、どうしますか」
ガウェインは王命書を見る。
次に、処刑台の向こうに再現された地下聖堂の扉を見る。
『待機せよ』
命令が繰り返される。
「従わない」
ガウェインは自分で答えた。
鎖を握り、首から引き離す。
誓約が胸を焼く。
それでも立ち上がる。
「私は一度、命令に従って人を見捨てた」
処刑台へ大剣はない。
ガウェインは鎖を腕へ巻きつけ、柱ごと引く。
「二度目はない」
王命書が燃え上がる。
胸当ての下で誓約が破れ、血が滲む。
処刑台の柱が傾いた。
地下聖堂の扉を模した壁へ、鎖ごと体当たりする。
白い石が割れた。
命令が砕ける。
ガウェインは処刑台を降りず、隣のオズワルドへ手を伸ばした。
「爺殿!」
「年寄りを乱暴に呼ぶな」
声は掠れているが、意識はある。
ガウェインが鎖を緩め、オズワルドの右手を杖へ届かせる。
老人は完成していない浄化式を見る。
四年前と同じ選択肢だった。
証拠が足りない。
術式が足りない。
安全を保証できない。
待てば、より正しい方法が見つかるかもしれない。
「今度は待たん」
オズワルドが杖を握る。
未完成の浄化式へ、自分の魔力で不足部分を書き足した。
完全な浄化には足りない。
それでも、支配核が魂の奥へ潜るのを止めることはできる。
「まず裂けるのを止める。これは今やる」
金色の術式がイゼベルの胸を囲んだ。
黒い糸が一瞬止まり、支配核の輪郭が浮く。
不完全な式の反動で、オズワルドの杖を持つ手が焼けた。
「失敗したら?」
イゼベルが問う。
「その時は、失敗した責任をわしが負う。おぬしのせいにはせん」
「私の魂で試すの?」
「今のは救命じゃ。ここから先は選ぶのはおぬしじゃ」
オズワルドは術式を固定したまま、浄化を進めず杖を止めた。
急ぐことと、本人の選択を奪うことは違う。
「完全な浄化を受けるか、支配核だけ断つか。今ここで聞く」
イゼベルの目が揺れる。
「拒めば?」
「核だけを選べば、おぬしの呪詛は残る。治すと決めつけん」
「苦しみも残る」
「残る」
嘘をつかない。
元どおりになるとも、全てを救えるとも言わない。
群衆の糸がまた太くなる。
イゼベルは答えない。
沈黙も拒絶も、今は彼女の選択だった。
セラフィーナは白金の刃を細くする。
支配核の境目が一瞬だけ見えた。
ガウェインが命令を破った時。
オズワルドが不完全でも動き、最後に本人へ尋ねた時。
四年前と違う選択へ、イゼベルの支配が揺れている。
「今です」
セラフィーナが踏み込む。
イゼベルの胸へ刃を向ける。
殺意はない。
それでも攻撃魔法だった。
治癒では届かない場所へ、怒りから生まれた断罪を入れる。
「また私を切り捨てるのね」
「いいえ」
刃先が砕けた聖印へ触れる。
「あなたへ食い込んだ、他者の命令だけを切り捨てます」
白金の刃が支配核の外周を走る。
黒い糸が次々に切れた。
群衆が床へ膝をつく。
処刑台の鎖が消える。
支配核だけがイゼベルの魂から浮き上がった。
黒い棘を持つ球体。
中心から、魔王城の奥へ一本の線が伸びている。
「オズワルド様」
「選べ、イゼベル」
老人がもう一度問う。
「このまま核だけ断つか。不完全でも浄化を受けるか」
イゼベルは黒い球体を見る。
それがなければ、怒りまで失うように感じるのだろう。
四年間、自分を立たせた力でもあった。
「祈りは、信じない」
イゼベルが言う。
「信じなくてよいです」
セラフィーナは刃を止めたまま待つ。
「聖女も、信じない」
「はい」
「あなたのことも、まだ」
声が途切れる。
セラフィーナは答えを急がせない。
イゼベルが手を伸ばした。
黒い球体ではなく、セラフィーナの空いた左手へ。
「でも今は、あなたが切る場所を選ぶことだけ、信じる」
セラフィーナはその手を取った。
冷たい。
痛みも怒りも消えていない。
「核を断ってください」
「分かりました」
オズワルドは完全浄化の進行を止め、魂を守る最低限の式だけ残す。
選ばれなかった治療を押しつけない。
ガウェインは床へ置いていた大剣を拾い、魔王城へ伸びる線を押さえた。
セラフィーナはイゼベルの手を握ったまま、白金の刃を振るう。
支配核が二つに割れた。
黒い光が広間を満たす。
イゼベルの身体から力が抜ける。
セラフィーナは手を離さず、床へ倒れる身体を受け止めた。
「痛みは」
「消えていないわ」
イゼベルが目を閉じる。
「怒りも」
「消す必要はありません」
「あなたを許したわけではない」
ガウェインへ向けた言葉だった。
「分かっている」
彼はそれだけ答えた。
オズワルドが診察の光を浮かべる。
「触れてよいか」
イゼベルは長く黙った後、頷いた。
初めて本人の許可を得て、老人の治療が始まる。
白い門を覆っていた幻が崩れた。
操られていた者たちは、自分が投げた石や向けた刃を見て震えている。
セラフィーナは責めず、謝罪を急がせもしなかった。
まず武器を下ろし、互いの傷を確認するよう頼む。
イゼベルが薄く目を開ける。
「どうして、まだ祈るの」
「祈れば正しくなれるからではありません」
セラフィーナは床へ置いた聖女の紋章を拾わない。
「間違えた時、もう一度誰かの手を取る理由を忘れないためです」
イゼベルは理解したとは言わなかった。
それでも、繋いだ手を振りほどかなかった。
「私はまだ、祈ることをやめません」
白い門が浄化され、中央路が開く。
その声へ答えるように、赤い門から大地を割る衝撃が響いた。




