第084話 シャドウ戦・決着
ローグは、全てのフィルへ背を向けた。
十を超える同じ声が止まる。
「ローグ、どれが私?」
もう一度、四方から問われた。
ローグは振り返らない。
匂いも声も感情も同じなら、本物を当てる方法はない。
当てようとすれば、シャドウが作った勝負へ乗ることになる。
間違えた瞬間、ローグがフィルを疑った証明にされる。
「知らん」
ローグは答えた。
銀髪の影たちが一斉に首を傾ける。
「見つけないの?」
「お前が何をするかは、お前が決めろ」
事前の合図は作らない。
自分のところへ来いとも言わない。
ローグは短剣を逆手へ持ち替え、霧の中心へ歩いた。
怖くないわけではない。
背中へ、本物のフィルの視線があるかもしれない。
助けを求める声が、今度こそ本物かもしれない。
振り返らなかったせいで、彼女を傷つけるかもしれない。
ローグはその可能性を飲み込んだ。
信じることは、安心することではない。
怖いまま、相手の選択を奪わないことだった。
背後で複数のフィルが動く。
足音も呼吸も同じだった。
「信じるとは、見分けることすら諦めることか」
シャドウの声が霧全体から響く。
「違う。見分けられなくても、あいつはあいつの仕事をする」
「お前を守らずに?」
「守るかどうかも、俺が決めることじゃない」
影刃が右から来る。
ローグは自分で避けた。
次は足元。
石を蹴って身体を捻る。
フィルの助けを待たない。
助けに来ないことを裏切りとも思わない。
三本目が肩を掠め、血が外套へ滲んだ。
背後のフィルたちが同時に叫ぶ。
「ローグ!」
振り返らない。
本物なら助けに来るはずだという決めつけも捨てる。
ローグは霧の奥に立つ黒い輪郭だけを追った。
影はフィルの姿を増やすほど、一箇所だけ薄くなる。
幻を維持する力が、地面の奥から供給されている。
門へ続く黒い線。
シャドウの足元から伸び、霧門の紋章へ繋がっていた。
魔王との契約だ。
ローグが線へ踏み込もうとすると、全てのフィルが前を塞ぐ。
「私を斬るの?」
「ローグ、こわい」
「置いていかないって言った」
どの声にも、フィルの恐怖が混ざっている。
短剣を振れば、影か本物か分からない身体を傷つける。
「ほら。近づけたから、刃を振れない」
シャドウが囁く。
「信頼は弱点だ」
「そうだな」
ローグは短剣を鞘へ戻した。
影たちが笑う。
「認めるのか」
「守りたい奴がいれば、できないことは増える」
ローグは空いた両手を下げた。
「だから、俺一人で答えを出す必要もない」
霧門の方角で、獣の唸り声がした。
フィルの声ではない。
クロだった。
白い霧の流れが変わる。
ローグの周りへ集まっていた銀髪の影たちが、背後へ引かれ始めた。
本物のフィルは、ローグのところへ来ていなかった。
クロ、チビ、ハナと共に門の前へ回り、シャドウの退路へ霧を重ねていた。
エミが三匹へ頼んだ役目を、フィルが自分で引き継いだのだ。
フィルも、ローグの背へ駆け寄りたかった。
影のフィルたちが彼を囲むたび、身体が勝手に動きそうになる。
だがローグは振り返らなかった。
なら、自分も彼が知らない場所で役目を果たす。
フィルはクロの横へ膝をつき、霧を低く流した。
チビが契約線の結び目を見つけ、ハナが門の揺れを身体で押さえる。
「ローグ、避ける」
自分へ言い聞かせる。
「私は、閉じる」
「閉じる」
本物の声が、門の側から聞こえる。
霧が黒い契約線を包む。
影の供給が止まり、偽のフィルが一体ずつ崩れた。
最後に残った一人も、ローグの前ではなくシャドウの背後に立っている。
「守りに来ないとはな」
ローグが笑う。
「ローグ、自分で避ける」
「信頼が重い」
「一人でやるな」
「それは今も有効か」
「二人で、別のことする」
同じ場所に立つ必要はない。
違う役目を選び、互いがやり切ると信じればいい。
シャドウの輪郭が揺れた。
「なぜだ」
足元から影刃が無数に伸びる。
「なぜ、お前を置いて別の場所へ行った者を疑わない」
「置いていったんじゃない。行く場所を選んだ」
ローグは影刃の間を走る。
過去の癖を読まれているなら、癖を消すのではなく利用する。
左へ逃げると見せ、記録どおり煙玉へ手を伸ばす。
シャドウの刃が、予測された退路へ集中した。
ローグは煙玉を投げなかった。
足元へ落とし、爆ぜる力で正面へ身体を押し出す。
逃げる技を、近づくために使う。
シャドウの懐へ入った。
「結局、お前も俺と同じ傷を持つ」
「ああ」
「ならば裏切りを恐れろ」
「恐れてる」
否定せず、ローグは短剣を抜く。
刃先をシャドウの喉へ向けない。
胸元に刻まれた黒い契約印へ差し込んだ。
「それでも、こいつが何を選ぶかまで決めつけない」
短剣を横へ引く。
フィルの霧が門側の契約線を浮かせ、刃が影術式と魔王を繋ぐ部分だけを断った。
黒い光が破裂する。
シャドウの身体から影が剥がれ、地面へ落ちた。
門を覆っていた霧が薄くなる。
ローグは倒れかけたシャドウを壁へ押さえつけた。
短剣を喉元へ置く。
殺せる距離だった。
シャドウは抵抗しない。
人の輪郭だけが残った顔で、ローグを見る。
「殺さないのか」
「お前のためじゃない」
ローグは刃を引かなかった。
「俺が誰を殺すかまで、魔王の契約に決めさせない」
投げ縄で両腕を縛る。
影へ潜る力は戻らない。
「……なぜだ」
シャドウの声が初めて掠れた。
「お前も知っているはずだろう。信じた先に何があるか」
「知ってる。裏切られることもある」
ローグは立ち上がる。
「だが、お前は俺の答えを証明した」
「何を」
「捨てられた痛みを理由に全部捨てれば、最後には自分の選択まで魔王へ渡すことになる」
シャドウの胸から、切れた契約印が黒い灰になって落ちる。
「俺はそこへ行かない」
フィルがローグの隣へ戻ってきた。
今回は支えるためではない。
並んで、同じ敗者を見た。
ローグは横目でフィルを見る。
「来なかったな」
「行きたかった」
「だろうな」
「でも、閉じた」
「助かった」
短いやり取りだった。
それだけで十分だった。
来なかったことを責めず、行きたかった気持ちも否定しない。
二人の信頼は、そこでまた一段だけ形を変えた。
シャドウは二人を交互に見る。
同じ傷から出発し、一人は誰も信じない道を選んだ。
もう一人は不完全な信頼を何度でも選び直した。
「……同じでは、なかったのか」
ローグは答えなかった。
代わりにフィルが言う。
「途中は同じ。今は違う」
霧門を塞いでいた影が消える。
離されていたアレン、リリア、エミと三匹の姿が戻った。
門の先では、中央路へ続く石橋が開いている。
ローグが一歩踏み出した時、白い門の奥から祈りが聞こえた。
清らかな言葉は途中で歪み、女の悲鳴へ変わった。




