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第083話 シャドウ再び


ローグの班が霧の門を抜けた瞬間、後ろの足音が一つ消えた。


先頭はローグ。


その後ろにフィル、アレン、リリア、エミと三匹の魔獣。


左門を通過する直前まで、確かに全員いた。


最初に消えたのは、最後尾を歩くハナの重い足音だった。


「止まれ」


ローグが片手を上げる。


全員が止まる。


チビが短く鳴いた。


その声も途中で切れた。


振り返る。


白い霧の中に、誰の姿もない。


フィルの銀色の髪も、アレンの白銀の剣も消えていた。


残っているのは、自分の足音だけだった。


「フィル」


呼びかける。


右から返事がした。


「いる」


左からも返る。


「ローグ、こっち」


正面ではアレンの声がする。


「皆、無事です」


背後でリリアが歌い始める。


どれも近い。


どれも、わずかに呼吸の位置が違う。


ローグは目を閉じた。


「声を使うな。足元の石を二度蹴れ」


返事の代わりに、石を蹴る音が四方から鳴る。


合図まで複製されていた。


ローグは舌打ちした。


前回の戦いの後、仲間内で決めた簡易合図だった。


声を真似されても、足音までは誤魔化しにくい。


そう思っていた。


だが記録を読まれた相手には、準備した合図すら罠へ変わる。


信頼の手順が、敵の道具にされる。


その嫌な感触が、黒刃に売られた時の記憶と重なった。


霧の奥で、低い笑い声がした。


「同じ手は通じない」


シャドウの声だった。


「前は通じた覚えもないがな」


ローグは短剣を抜く。


足元の影が伸び、刃になる。


半歩下がって避けた場所へ、二本目が生える。


三本目は避ける先を塞ぐ。


ローグは跳ばず、その場へ身を沈めた。


最初の刃を短剣で払い、二本目の柄へ足をかける。三本目の下を転がり、霧の壁へ短剣を投げた。


金属が何かを裂く。


黒い外套が一瞬だけ見え、すぐ消えた。


「趣味が変わらないな」


「お前の癖も変わらない」


影から、黒刃の仲間たちが現れる。


ダリウス、盾役、治療師。


かつてと同じ装備、同じ声。


「左へ逃げろ、ローグ」


盾役が叫ぶ。


左の路地は、黒刃で使っていた退避経路だった。


ローグは右へ走る。


右側の壁から投げ縄が飛び、足首を狙った。


「退避経路を避けた時の癖まで知ってるか」


「記録は詳細だった」


霧の中から紙が一枚舞う。


黒刃の紋章。


斥候ローグ=クロウの戦闘記録。


得意な投擲角度、負傷時に選ぶ逃走方向、煙玉の位置、仲間を守る時に優先する標的。


ダリウスの署名がある。


「あの馬鹿、技だけじゃなく癖まで売ったのか」


「価値があると思ったのだろう。捨てた部品にも、売値はつく」


ローグの指が一瞬固くなる。


影刃がそこへ来る。


避け切れず、外套の肩が裂けた。


血は出ていない。


だが過去を金へ換えられた感覚だけが、古い傷を開く。


「ローグ」


今度は近くでフィルの声がした。


目を開ける。


霧の中に銀色の影が一つ立っている。


「目、閉じて」


「本物か」


「匂い、見て」


ローグはすぐ従わなかった。


従いたい自分がいる。


だが、それこそシャドウが待っている答えかもしれない。


フィルならそう言う。


フィルだからこそ、そう言わせた影かもしれない。


短い迷いの間に、影刃が肩を掠めた。


フィルの声が少しだけ荒くなる。


「迷ってもいい。止まらない」


本物でも偽物でも、その言葉だけは今のローグに必要だった。


ローグは目を閉じた。


言い方がフィルだった。


ローグは目を閉じる。


視覚を捨てる。


フィルが薄い霧をローグの周りへ流す。


霧が触れたものの感情を、匂いとして運ぶ。


右には殺意だけの影。


左にはローグの過去を真似た虚像。


正面に、恐怖と怒りと、ローグを置いていきたくない匂いがある。


「正面」


ローグはフィルの匂いを頼りに進む。


目を閉じたまま、手首へ霧が触れる方向へ短剣を投げる。


影の刃が砕けた。


フィルの手が外套を掴む。


「こっち」


二人は同じ方向へ走る。


アレンたちの声が左右から呼ぶ。


助けを求め、ローグを責め、フィルが敵だと告げる。


ローグは聞かない。


フィルの霧が示す、感情のある道だけを選ぶ。


「視覚を捨てたか」


シャドウの声が近づく。


「お前が教えてくれた。見えるものほど信用できない」


「獣の鼻だけを信じる」


「フィルを信じてる」


「同じことだ」


「違う。鼻が外れても、こいつが選んだ結果なら一緒に引き受ける」


霧が一瞬揺れた。


フィルがローグを見る気配がする。


「捨てられた者が、まだ誰かを拾うのか」


「拾ってない」


ローグは即答した。


「フィルが勝手についてきた。俺も勝手に隣を歩いてる」


「言い換えただけだ」


「大事な違いだ。拾った物なら持ち主が置いていける」


ローグは短剣を構える。


「隣を歩く奴を、俺の判断だけで置いてはいけない」


影が地面から膨れ上がる。


「お前は捨てられた痛みを知っている」


「知ってる」


「なら、なぜまた他人を近づける」


「置いていかれる痛みを知ってるからだ」


ローグは初めて、軽口を使わず答えた。


「俺が先に置いていく理由にはならない」


白い霧が大きく広がる。


隠れていた影の輪郭がいくつも浮かぶ。


ローグはその全てを無視し、フィルの匂いがある一点へ手を伸ばした。


指先が銀色の髪へ触れる。


「見つけた」


その瞬間、フィルの匂いが四方へ増えた。


恐怖。


怒り。


ローグを守りたい気持ち。


同じ感情が、同じ濃さで霧の中を満たす。


手の下にいたフィルの姿も黒い影へ崩れた。


ローグは一人で立っていた。


「記録には、獣の能力もあった」


シャドウが告げる。


黒刃が魔王軍へ渡したのは、ローグの戦術だけではない。


群れを失った白銀の少女。


感情を匂いとして読み、霧へ乗せる能力。


ローグと共にいる時の行動。


ローグの腹の底が冷えた。


自分の過去が売られたことには、怒ればよかった。


だがフィルの傷まで、勝手に帳簿へ載せられている。


彼女が群れを失ったこと。


人里を怖がったこと。


それでも隣へ来たこと。


すべてが、敵の作戦資料になっている。


「俺の記録だけじゃなかったのか」


「価値あるものは全て記録される」


シャドウの答えに、ローグの手が震えた。


捨てられた過去より、隣の者をまた道具にされた怒りの方が強かった。


影は今、その全てを複製している。


「匂いも、声も、感情も同じだ」


白い霧の中へ、銀髪のフィルが一人ずつ現れる。


前、後ろ、左右。


十人を超えるフィルがローグを見る。


全員が同じ匂いを持っている。


全員が同じ声で問う。


「ローグ、どれが私?」


霧の中で、ローグの短剣だけが低く構えられた。



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