第075話 視点の移動・再び
旅の夜、リリアとエミは父アルノの歌を二人で歌った。
新しい舞台幕を馬車の横へ張り、焚き火の風除けにしている。
継ぎ接ぎの色が炎に照らされ、これまで訪れた村々のように見えた。
リュートは箱に入れたまま。
まだ弾く準備はできていない。
使わないと決めたのでもない。
いつか二人で弦を張り直す未来を、箱の中へ残している。
声だけで旋律を重ねる。
母を看取ったことを、まだ過去とは呼べない。
歌の途中で声が止まり、二人とも黙る時間がある。
その沈黙も失敗として埋めず、曲の一部にする。
「お母さん、聞いてるかな」
「聞いてる」
エミは短く答えた。
少しして、言い直す。
「聞いてなくても、歌う」
母へ届けるためだけではなく、自分たちが覚えているために歌う。
街道の宿で、魔王城へ向かう者たちの噂を聞いた。
噂はどれも大げさだった。
義賊は百人の騎士を一人で倒し、聖女は王都を一声で救い、筋肉商人は山を持ち上げたことになっている。
リリアは久しぶりに声を上げて笑った。
「旅人の話は、いつも舞台より派手ね」
「でも、いる」
エミは噂の核だけを見る。
魔王軍へ逆らい、自分の答えを選んだ人々がいる。
宿の隅では、別の旅人が首を振っていた。
「どうせ尾ひれだ。勇者でもない連中が、魔王軍に勝てるものか」
その言葉に、リリアは以前なら笑って受け流しただろう。
今は、母の契約印の欠片を入れた小箱へ手を置く。
「尾ひれでも、誰かが実際に泳いでいるのよ」
旅人は意味が分からず眉をひそめる。
エミは帳面へ噂の出所を書いた。
どの街道から来た話か。
どの村で聞かれた名か。
派手な数字は捨て、方向と手がかりだけを残す。
物語を笑い飛ばす者がいても、彼女たちはもう、自分たちと同じように戦った誰かの存在を疑わなかった。
魔王軍の幹部を退けた義賊と銀色の少女。
ローグとフィルは、魔王圏へ流れた黒刃の契約記録を追っている。
王都を離れ、自分の正義を選んだ聖女と辺境伯、老賢者。
セラフィーナたちは、シイから届いた古代鉱石の台帳を手に東へ進む。
故郷を守り、筋肉で商売をする巨漢と眼鏡の経理士。
ボルド商会の馬車には復興物資と、不死術式実験の首輪が証拠として積まれている。
別々の場所で戦った者たちが、同じ敵の根を追っている。
姉妹の手元にも、母を縛った契約印の欠片がある。
道は違っても、全て魔王軍の同じ仕組みへ繋がっていた。
「私たちも行く」
エミが先に言った。
「公演は?」
「する」
エミは迷わない。
「戦う旅でも、歌はやめない」
希望を広げることと敵を追うことを、どちらかへ絞らない。
レクイエムを作った不死術式は、魔王軍に残っている。
同じ家族を増やさないため、根を断たなければならない。
リリアは妹を見る。
以前なら危険だと止めた。
今は、行きたい理由を聞いてから隣へ並ぶ。
守るべき子どもではない。
共に行き先を選ぶ相棒だ。
「ええ。一緒に」
「守る」ではなく、一緒に。
姉妹の関係を変えた一語だった。
語りの視点が、街道より高く上がる。
同じ星空の下、互いをまだ知らない者たちが歩いている。
霧の港から東へ進む二つの影。
フィルが風の匂いを嗅ぎ、夜明けに似た何かが増えたとローグへ告げる。
古代鉱石の流通図を追う三人。
セラフィーナは救援網から届いた報告を読み、王都へ戻らず救えた命の数を知る。
復興物資を積み、次の街へ走る商会馬車。
ミアが道を計算し、ボルドが近道の岩を動かす。
旅芸人姉妹の馬車も、同じ夜明けの方角へ向かう。
リリアの歌が風へ乗り、別の道を進む誰かの夜へ届く。
別々の物語が、一点へ近づいていた。
そして、視点は一人の少年へ戻る。
ソルヴェイ村を出てから、一人で歩き続けた少年。
アレンは焚き火の前で、錆びた短剣を見つめていた。
野営地には、彼一人分の鍋と毛布しかない。
村を出た時は、それで足りると思っていた。
誰かを巻き込まず、自分だけで魔王を倒せばよい。仲間を探すという言葉も、戦力になる者を集める意味でしか考えていなかった。
けれど街道で聞く噂は、強さだけを語らない。
銀色の少女を逃がすため、義賊が戻ったこと。聖女が称号より患者を選んだこと。商人が利益の出ない村へ荷を運んだこと。旅芸人が、敵になった母を殺さず解放したこと。
選ばれた勇者ではない者たちが、自分の守り方を選んでいる。
その噂を、アレンは最初信じなかった。
自分より強い人間たちの物語だと思った。
けれど火のそばへ来た行商人が、旅芸人の姉妹から受け取った警告文を見せてくれた。
眠りの歌を聞いた時、ひとりで耐えようとしないこと。
名前を呼び合うこと。
倒れた者の場所を記録すること。
そこに英雄の華やかさはない。
誰でも使える、けれど一人ではできない手順だった。
アレンは紙を借り、何度も読み返した。
親父さんなら、最初の一歩で守れと言う。
でも二歩目で生き残れ、とも言った。
生き残るには、声をかける相手がいる。
その事実が、短剣の錆より重く手の中へ残った。
アレンは空の向こうから届く歌へ耳を澄ます。
旋律は途中で何度も途切れた。
それでも次の声が続く。
一人が完璧に歌う曲ではなく、止まった場所を別の誰かが受け取る歌だった。
アレンはまだ、その意味を言葉にできない。
仲間を探す旅は、まだ途中だ。
世界のあちこちでは、すでに仲間になる者たちの物語が動いている。
アレンだけが、まだそれを知らない。
短剣へ手を触れる。
一瞬、遠い歌に応えるように錆の下が温かくなる。
反射的に柄を握り、光を待つ。
何も起こらない。
以前なら、選ばれていない証のように感じただろう。
今夜は手を離さなかった。
光らなくても持って歩ける。誰かと出会う前から、できる選択はある。
アレンは鍋を火から下ろし、明日の分を半分残した。
旅の途中で誰かに会った時、一食を分けられるように。
光るほどではない。
欠けた者たちが同じ方角を選び始めた、最初の微かな共鳴だった。
「まだ、光らない」
呟いた後、アレンは残した食事へ布をかけた。
「でも、持っていく」
誰かを待つための半分。
それが、彼にとって初めての仲間の席だった。
夜風の向こうで、途切れた歌がまた続いた。
アレンは鍋の蓋を押さえ、明日の道を少しだけ人の多い街道へ変えることにした。
出会いを避ける旅から、出会うかもしれない旅へ。




