第074話 馬車が走る
姉妹は村外れの丘へ、小さな墓標を作った。
墓標には「セレナ=カルナ」と本名だけを刻んだ。
魔王軍幹部レクイエムという名も、彼女が生んだ被害も記録には残す。
けれど娘たちが帰る場所には、母が自分で選んだ名前を置いた。
リリアは最初、墓標へ「母」と刻もうとした。
エミがそっと止める。
「私たちには母だけど、そう呼べない人もいる」
鍛冶屋が置いた木札のことを、二人とも思い出していた。
母としてのセレナを守りたい。
同時に、レクイエムに傷つけられた人々の前で、母という言葉だけを墓標へ掲げることはできない。
本名を刻む。
それは娘たちの愛と、被害の記録の間に置ける、今の二人の精一杯の線だった。
舞台幕の切れ端と、白い花。
幕は十二年前に燃えた一座と同じ赤色。
白い花は、セレナが髪油へ使っていた花だった。
母の身体は光へ消え、埋めるものはない。
それでも帰ってこられる場所が欲しかった。
旅を続けることは、母を置き去りにすることではない。
戻る場所を作り、自分たちは前へ進む。
チビが花を増やそうとして、食べられる木の実ばかり並べる。
「お母さん、木の実好きだった?」
エミが聞く。
「甘く煮たのは好きだった」
リリアが答え、木の実も一つ残す。
正しい弔い方より、家族らしい物を選んだ。
クロは墓標の周囲を一周し、安全を確かめた。
最後に墓標の前へ座り、短く鼻を鳴らす。
群れの一員へ別れを告げる仕草だった。
ハナは荷物を運ぼうとして、衣装箱を逆さにする。
村の子どもたちが笑いながら布を拾う。
昨日の公演で、リリアは涙の跡を隠さず歌った。
観客も泣き、最後には笑った。
喝采は、悲しみを消したからではなく、一緒に抱えたことへ送られた。
色とりどりの布が丘へ広がった。
「もう、みんな」
エミが困りながら笑う。
日常が戻ってきた。
母の匂いは、もう風の中にない。
以前のエミなら、匂いを探して何度も周囲を回っただろう。
今は消えたことを確かめ、胸へ手を置く。
匂いがなくても、記憶まで消えたわけではない。
ハナもそれをエミへ伝えた。
「うん」
寂しさを否定せず、エミは頷く。
リリアは父のリュートを、自分の歌詞帳と同じ荷箱へ収めた。
母の銀飾りは、エミの短杖へ結んだ。
父の遺品を姉だけ、母の遺品を妹だけが持つのではない。
どちらも家族全員の記憶として、旅の中で行き来させる。
過去だけを封じる箱ではない。
これから作る曲と一緒に運ぶ。
村人たちが街道まで見送りに来た。
眠りから最初に戻った老人が、新しい舞台幕を贈った。
村で織った布を継ぎ合わせたため、色は揃っていない。
「次の町で、ここが生きてるって見せてくれ」
リリアは公演料として受け取った。
村長はもう一つ、封蝋した包みを差し出した。
眠りへ落ちる前後の記録、魔王軍兵が残した首輪の破片、墓地で拾った術式札が入っている。
「これを、戦える誰かへ」
「私たちが届けます」
リリアは軽く約束しなかった。
包みの表へ村名と被害者数、目覚めた人数を書く。死者がいなかったことだけで、被害が小さかったとはしない。
さらに、鍛冶屋の妻の名も別紙へ記した。
この村で亡くなったわけではない。
けれど同じ呪歌が過去に奪った命だ。
記録から外せば、セレナの罪が小さく見える。逆に全てを母一人の罪にすれば、魔王軍の仕組みが見えなくなる。
リリアは筆を止め、エミへ確認する。
「これでいい?」
「始まり、命令、被害、最後の選択。分けて書く」
エミの言葉どおり、四つの欄に分けた。
悲しみは一つでも、記録は混ぜない。
エミは母の契約印の欠片を別の小箱へ入れた。
母の名を隠すためではなく、証拠の由来を自分たちが説明するためだ。
「レクイエムを倒したって話になるかな」
リリアが小さく言う。
「違うって言う」
エミは即答した。
「セレナが、自分で終わらせた。私たちは手伝った」
功績のために母の最後の選択を奪わない。
村長はその言葉も記録の末尾へ書き加えた。
目覚めたばかりで足元の弱い者も、拍手を送っている。
馬車の御者台へ、エミが先に乗った。
これまで行き先を決めるのは、いつもリリアだった。
宿、演目、危険な道を避ける判断。
エミは「どこでもいい」と答えることが多かった。
今は自分から地図を広げる。
エミが手綱を握る。
「行こう」
「どこへ?」
「魔王軍の術式を追う。次の一座が、お母さんみたいになる前に」
地図には、角獣の記憶で見た実験施設の印が三つある。
そのうち一つへ、セレナが最後に残した言葉を添える。
鐘のない塔。
村長はその名を聞き、古い街道話を思い出した。
北東の廃塔では、風の日にも鐘が鳴らない。近づいた旅人は、歌だけを聞いて眠るという。
噂にすぎない。
だが、旅芸人の道には噂が命を救うこともある。
リリアは各地の一座へ送る警告文を書いた。
白髪の歌い手は解放されたこと。
同じ術式がまだ残っていること。
眠りの歌を聞いた時は、火より先に名前を呼ぶこと。
エミはその横へ、魔獣を無理に縛る首輪の図を描いた。
芸人だけでなく、魔獣使いにも届くように。
最も近い街道は危険だが、旅芸人が多く通る。エミは安全だけを理由に遠回りせず、途中の一座へ警告を渡せる道を選んだ。
リリアは反対せず、食料と休息日を計算する。
危険へ急ぐことと、倒れるまで急ぐことを同じにしない。
三日進んだら半日休む。夜の見張りは二人と三匹で分ける。公演をした翌朝は出発を遅らせる。
新しい旅の決まりを、姉だけでなく全員で決めた。
チビは休息日の欄へ木の実の印をつけ、クロは危険な道へ鼻先を押しつける。ハナが地図の端を破りかけ、姉妹が同時に止めた。
笑いながら決めた規則も、旅を続けるための立派な約束になった。
行き先も、理由も自分で言葉にした。
リリアは墓標を一度振り返る。
「行こうか」
馬車が動き出す。
リリアは御者台の隣へ座る。
妹から手綱を取り上げず、道の分岐を一緒に見る。
チビが肩で鳴き、クロが横を走り、ハナが後ろから荷台を押した。
車輪が朝日の中へ入る。
道に伸びる姉妹の影は、同じ長さに並んでいた。
姉が前、妹が後ろではない。
二人と三匹の旅が、新しい形で始まった。
背後の丘では、継ぎ接ぎの舞台幕が風に揺れている。
次に戻る時、泣くためでも逃げるためでもなく、新しい歌を届けるために。
リリアはその時まで、母の名を歌の中で生かすと決めた。




