第073話 泣きながら笑う
翌朝、リリアは化粧を始める前に涙をこぼした。
母の銀飾りを、化粧台の隅へ置いた瞬間だった。
昨日は別れに集中し、涙の意味を考える余裕もなかった。
朝になって初めて、もう母の声が聞こえない静けさが届く。
反射的に笑顔を作る。
頬の筋肉だけが動き、涙は止まらない。
十二年続けた習慣は、心より先に顔を守ろうとする。
「あら、目に何か」
言い訳の途中で、また涙が落ちる。
エミが鏡越しに見ていた。
「お姉ちゃんが泣いてる」
リリアの肩が強張る。
「初めて見た」
「嘘。小さい頃は泣いたでしょう?」
「覚えてない」
エミは四歳だった。
物心ついてからの姉は、いつも笑っていた。
それが優しさであり、同時に二人の間の壁だったと今知る。
責める声ではない。
驚きと、少しの安堵があった。
姉が泣けるなら、自分が守らなければ世界が崩れるという役目から、リリアも降りられる。
「泣いたら、止まれなくなると思ってた」
リリアは鏡を見られない。
「私が泣いたら、エミも不安になる。世界まで壊れる気がして」
「不安にはなる」
エミは正直に答える。
「でも、泣いてないお姉ちゃんが壊れる方が怖かった」
「壊れてない」
エミが姉の手を取る。
チビが化粧台へ登り、布を差し出した。クロは足元へ座り、ハナは馬車の入口を塞ぐように横になる。
「みんな、いるよ」
「お母さんはいない」
リリアが言う。
「うん」
エミは、母もここにいるとは言わない。
いない人をいることにして痛みを消さず、残った家族の存在を並べる。
リリアは泣いた。
声を抑えようとしたが、途中で諦めた。
舞台幕を閉め、馬車の中だけへ響く泣き声にする。
最初、エミは慰めようとして手を伸ばした。
途中で止める。
泣き止ませることが、今の支えではないと分かったからだ。
代わりに水を温め、喉に効く薬草を選ぶ。チビは布を何枚も運び、クロは外の足音へ耳を立て、ハナは大きな身体で馬車を揺れから守った。
泣く姉を中心に、皆が静かに役割を持つ。
リリアはその気配を感じながら、さらに泣いた。
泣いても誰も困り果てて逃げない。
その事実を、身体が覚えるまで時間がかかった。
父が死んだ夜に泣けなかった分。
母を二度失った分。
十二年、飲み込んだものが声になった。
父へ助けてと言えなかったこと。
母を待ち続けたこと。
エミを守るのが苦しい日もあったこと。
そんな自分を姉失格だと思っていたこと。
泣き終わっても、世界は壊れなかった。
目は腫れ、声も掠れ、舞台へ立つには最悪の顔だった。
それでも呼吸は、昨日までより深い。
エミは隣にいる。
朝日はいつもどおり馬車へ入る。
広場では、昨日眠らされた村人たちが目を覚まし始めていた。
眠りから戻った者たちは、自分が休むことを望んだ瞬間を恥じていた。
リリアは彼らへ「負けたのではない」と伝えたい。
疲れて眠りを望むことと、生きることを諦めることは同じではない。
「今日の公演、やめる?」
エミが聞く。
リリアは目元の涙を全部は拭かなかった。
「やりたい」
「誰のため?」
エミが確かめる。
以前なら「みんなのため」と即答した。
リリアは考える。
「私のため。それから、聞きたい人のため」
初めて自分を最初に置いた。
誰かを安心させる義務としてではない。
自分も歌いたいから、舞台へ立つ。
公演をしない選択もできると知った上で、する方を選ぶ。
それは義務ではなく、自由だった。
泣いた後にも選べる笑顔を、初めて作る。
涙の跡が残ったまま、口元が上がった。
エミは笑顔をやり直させない。
左右が少し違い、目も赤い。
今までで一番、姉本人の顔だった。
「泣いてもいいなら……それでも、私はまた笑いたい」
午後、広場へ小さな舞台を組んだ。
眠りから覚めたばかりの人へ、無理に集まるよう告げない。窓から聞く者、寝台のまま耳を澄ます者、途中で帰る者も客として数えた。
開演前に、リリアは村長へ一つだけ頼んだ。
「途中でつらくなった人が出られる道を空けてください」
以前なら、最後まで客席へいてもらうことを喜んだ。
今日は違う。
歌が誰かの傷に触れるなら、離れる自由も舞台の一部にする。
村人たちは広場の端へ椅子を置き、休む場所を作った。宿の女主人は湯を用意し、鍛冶屋は鐘を一度だけ鳴らす合図を決めた。
公演は、演者だけが作るものではなくなっていた。
聞く者が、自分の限界を持ち込める場になる。
幕を開ける前、リリアはいつもの口上を忘れた。
どんな土地でも客を笑わせてきた、磨き抜かれた挨拶だ。口を開けば出るはずなのに、今日は喉の奥で止まる。
客席は待った。
誰も励ましの拍手で急かさない。
リリアは赤い目のまま頭を下げた。
「今日は、上手に笑えません」
広場の後ろで、誰かが「俺もだ」と答えた。
妻を亡くした鍛冶屋だった。
別の窓から「私はまだ眠い」と女主人の声がする。
嘲笑ではない。皆が今の自分を、一つずつ舞台へ差し出している。
エミが短杖を上げる。
チビは綱を渡り、途中で足を滑らせた。普段ならすぐ立て直すが、今日は綱へ腹ばいになったまま観客を見る。
子どもが一人、笑った。
チビも得意そうに鳴く。
クロは眠りから覚めた者の間を歩き、まだ震える手へ鼻先を寄せた。ハナは舞台袖へ収まらず、尻だけが客席から見えている。
笑いは揃わなかった。
泣く者の隣で笑う者がいて、途中で席を立つ者もいる。
それでも誰も、正しい顔を求められない。
リリアは母へ歌った曲を、今度は村の人々へ向けて歌う。家族の歌詞の間へ、焼けたパン屋、新しい鐘の縄、継ぎ直した屋根を即興で加えた。
村人も自分の一節を返す。
歌い終えた時、リリアは泣いていた。
同時に笑っていた。
どちらかが偽物なのではない。
二つの感情が同じ顔にあっても、舞台へ立てる。
途中で席を立った少年が、終演後に戻ってきた。
彼は何も言わず、舞台袖へ紙の朝日をもう一枚置いた。
最初の紙より、炎の形が歪んでいる。
「途中で怖くなった」
少年は小さく言う。
リリアは膝を折り、目線を合わせた。
「戻ってきてくれてありがとう」
最後まで聞けなかったことを謝らせない。
離れて、また戻る。
それも生きるための立派な動きだった。
最初の拍手は、エミからだった。
次に三匹、子どもたち、鍛冶屋、窓辺の女主人へ広がる。
喝采はリリアへ「元気になれ」と命じない。
今ここに立ったことだけを受け取る音だった。




