第072話 母を看取る
白髪が、少しずつ元の赤橙へ戻っていく。
完全には戻らない。
根元には白が残り、十二年を奪われた痕跡は消えなかった。
娘たちの膝の上に、母セレナが横たわっていた。
村人たちも目覚め始めている。
誰も母を囲まない。
リリアが頼む前に距離を取り、家族三人の短い時間を守った。
ただ一人、鍛冶屋だけが少し離れた場所で立ち止まった。
彼の妻は、レクイエムの呪歌で長く眠ったまま目覚めず、衰弱して亡くなっていた。今回の村では死者が出なかったが、過去の被害は消えていない。
鍛冶屋は拳を握り、セレナを見た。
リリアは母を庇うように動きかける。
エミが袖を掴んで止めた。
家族の時間を守ることと、被害者の存在を見えない場所へ押しやることは違う。
鍛冶屋は何も言わなかった。
ただ、妻の名を刻んだ小さな木札を地面へ置いた。
セレナはそれを見て、震える手を伸ばそうとする。
届かない。
「ごめんなさい」
母として娘へ向けた謝罪とは別の声だった。
鍛冶屋は頷かない。
許すとも言わない。
それでも木札を置いたまま、家族三人の時間を壊さず下がった。
リリアは初めて、母を看取る悲しみの外にも痛みがあることを、同じ場面の中で受け止めた。
レクイエムの灰色は消え、瞳に温かな色がある。
「大きくなったのね」
「遅いよ」
リリアの声に、笑いと泣きが混ざる。
「ずっと前に、大きくなった」
責める言葉を飲み込まず、それでも手を離さない。
セレナがリリアの頬へ触れる。
次にエミの髪を撫でる。
「四歳だったのに」
「十六歳」
エミの声が震える。
「十二年、経ったよ」
「名前を、もう一度聞かせて」
セレナが頼む。
「リリア=カルナ。二十歳」
姉が答える。
「エミ=カルナ。十六歳。チビと、クロと、ハナの相棒」
妹が続ける。
三匹も順に声を出した。セレナは一匹ずつ目で追い、知らない十二年を埋めるように名前を繰り返す。
「あなたたちが選んだ家族なのね」
「うん」
その一言を聞いて、母の表情から最後の緊張がほどけた。
守る相手が自分以外にもいることを、奪われたのではなく娘たちが生き延びた証として受け取った。
セレナの瞳が揺れる。
本人にとっては、燃える舞台から数日しか経っていないような記憶と、命令に従った長い暗闇が同時にある。
母の記憶は断片しかない。
リリアの最初の舞台も、エミが初めて魔獣と契約した日も知らない。
娘たちの人生の大半へ、母はいなかった。
今から全てを語る時間もない。
魔王軍に命じられ、各地で呪歌を歌った。眠らせた人々の顔も、途切れ途切れに残っている。
けれど娘たちの歌だけは、遠くで何度も聞いたという。
魔王軍の命令で別の土地へいても、風に乗った旋律へ足を止めた。
理由は分からず、ただ胸が痛んだ。
姉妹が最初に呪歌の跡を見つけた村でも、リリアの公演が終わるまで離れられなかった。
「近づけば、傷つけると思って」
「それでも、見つけてくれた」
エミは母が来なかった十二年を美化しない。
同時に、残った自我で距離を取ったことも受け取る。
「それでも見てたの?」
「うん」
リリアは母の手を握る。
父アルノのことを尋ねる。
リリアはリュートを母の手へ触れさせた。
焦げた胴を指がなぞり、失われた夫の顔が一瞬戻る。
セレナは目を閉じた。
「あなたたちが逃げるまで、立っていた」
「笑ってた?」
リリアが聞く。
「泣いてた。でも、あなたたちが振り返った時だけ笑った」
父も怖かった。
怖くない英雄ではなく、泣きながら娘へ次の一歩を渡した人だった。
父は約束どおり追いつけなかった。
それでも最後まで、娘たちが生きる道を守った。
「私も、別の道を選べたかもしれない」
「あの時のお母さんに、他の道を探す時間はなかった」
エミが言う。
「でも、私たちは同じ道を選ばない」
母を責めないことと、自己犠牲を受け継がないことを両立させる。
セレナは契約を謝る。
「守りたかった。でも、今度は私の歌で苦しめた」
姉妹は正しかったとは言わない。
契約後に傷つけた人々への責任も消えない。
セレナは、目覚めた村人の方角へ頭を下げようとした。
リリアが身体を支える。
「今、全部は償えない」
エミが言った。
声は冷たくない。
けれど優しさで事実を包まない。
「だから、私たちが続ける。記録を届ける。止める方法を探す」
セレナは娘たちを見る。
「背負わせるつもりは、なかった」
「背負わされたんじゃない」
リリアが答えた。
「私たちが、持っていくと決める」
母の罪を肩代わりするのではない。
母が残した証言と、魔王軍の仕組みを次へ運ぶ。
自分たちの旅の理由として選び直す。
「私たちが、あなたのしたことを伝える。始まりも、被害も、どちらも隠さない」
ただ、あの夜の母が追い詰められていたことと、愛が始まりだったことを受け取る。
「お母さん」
リリアは初めて、敵の顔ではなく母へ呼びかけた。
エミも続ける。
「お母さん」
四歳の時より低くなった娘の声を、セレナは何度も確かめるように聞いた。
セレナの身体から光がこぼれる。
胸元の銀飾りを外し、セレナはエミへ渡した。
一座を始めた日に、アルノが露店で買った安物だという。高価ではないから、雨の日も舞台の日も身につけられた。
セレナはもう一つ、途切れ途切れの言葉を残した。
「北の……鐘のない塔」
リリアとエミが顔を寄せる。
「歌を集める場所。そこに、私みたいな子が」
咳が言葉を切る。
不死術式の実験施設の一つだ。
セレナの記憶は曖昧で、場所も完全ではない。だが鐘のない塔という言葉は、魔王軍の地図へまだ載っていない手がかりだった。
リリアはすぐに紙へ書こうとして、手を止めた。
今は母の最後の時間でもある。
エミが代わりに、短杖の先で地面へその言葉を刻む。
記録する役を、妹が受け持った。
「二人で持って」
「なくしそう」
エミが泣きながら言う。
「なくしてもいいの。覚えているなら」
形ある物を、母の代わりに背負わせない言葉だった。
それでもエミは両手で受け取り、リリアの手を重ねた。
「ごめんね。置いていって、ごめんね」
「寂しかった」
リリアが答える。
「会いたかった」
エミが続ける。
「でも、生きたよ」
二人の言葉で、謝罪を許しだけへ急がせない。
エミが母の手へ額を当てる。
リリアは涙を落としながら笑わなかった。
今は笑わなくていい。
母を安心させるために、立派な娘を演じなくていい。
泣いた顔のまま、最後まで一緒にいる。
二人は同時に言う。
「行ってらっしゃい」
セレナは目を閉じる。
「行ってきます」
母として返した、最後の日常語だった。
家を出る人へ向ける、いつもの言葉。
いつかどこかで会えると信じる別れの言葉。
母の光が消えた後も、姉妹の手はしばらく重なったまま離れなかった。
その手の下には、セレナが残した銀の髪飾りだけがあった。
十二年前と今を繋ぐ、唯一の形ある遺品だった。




