第071話 解放
レクイエムの呪歌の中へ、一本の旋律が通った。
最初の音は低すぎ、二つ目は掠れた。
いつもの公演なら、伴奏を止めてやり直す。
今は間違えた音もそのまま次へ繋ぐ。
父アルノが、家族だけの夜に弾いた曲。
題名はなかった。
父がその日の出来事を即興で歌い、母が続きをつけ、娘たちが笑うための曲だった。
だから決まった歌詞も、正解の旋律もない。
リリアの声は震えている。
舞台で使う完璧な声ではない。
観客を励ますための声でもない。
怖い、会いたかった、どうしてという感情が、そのまま音へ混じる。
息が途切れ、涙で音が掠れる。
それでも歌う。
一度、完全に止まった。
母がこちらを見たからではない。
歌詞の中で、父の名を出そうとした時だった。
アルノ。
その一語が喉へ貼りつき、出てこない。
父の死を母へ返せば、母が壊れてしまう気がした。けれど父を避けて家族の歌を作れば、十二年前に幕を支えた人をまた置き去りにする。
リリアは息を吸い直した。
「父さんは、また会おうって嘘をついたんじゃない」
旋律ではなく、言葉が先に出た。
「会おうとして、私たちを行かせた」
音程はない。
それでもレクイエムの瞳が揺れる。
歌は綺麗な旋律だけではない。
言えなかったことを、相手へ届く形にすることだった。
母がパンを焦がした朝。
父が転んでリュートを守った夜。
幼いエミが魔獣へ菓子を全部渡し、家族四人のおやつがなくなった日。
アルノが雨漏りを直して屋根をさらに壊した日。
セレナが怒りながら、最後には皆で濡れて笑った夜。
英雄的ではない、誰にも記録されない家族の時間。
失った瞬間だけではなく、失う前に確かにあった時間を歌へ戻す。
「朝のパンは黒くて、父さんの靴には穴があいて」
歌詞にすると、あまりに格好が悪い。
それでよかった。
「エミは木の実を隠して、母さんは全部知っていた」
エミが戦いながら「隠してない」と返す。
声が少し裏返り、チビが抗議するように鳴いた。
リリアは泣きながら笑う。
笑ったために音程が外れた。
その外れた音へ、眠っていた宿の女主人が小さく息を吸う。彼女の指が床を探り、倒れた籠の取っ手を掴んだ。
鍛冶屋の口が、亡き妻の名を呼ぶ。
鐘守の男は目を閉じたまま、助けられなかった隣人へ謝った。
歌は傷を消さない。
眠りの底で手放しかけた名前を、本人のもとへ返していく。
村の各所から、別々の声が重なった。
子どもが祭りの歌を一節。老人が若い頃の労働歌を一節。歌えない者は床を叩き、呼吸だけを合わせる。
リリア一人の歌が村を救うのではない。
受け取った者が、自分の朝を呼ぶ声へ変えている。
宿の女主人は、目を閉じたまま鍋を叩いた。
鍛冶屋は低い声で、妻が好きだった洗濯歌を歌う。歌詞は半分間違っていたが、誰も直さない。
鐘守の男は涙を流しながら鐘を一度だけ鳴らした。
助けられなかった隣人のためではなく、今ここにいる者を起こすために。
眠っていた人々は、目覚める者もいれば、まだ沈んだままの者もいる。
それでも家族が名前を呼び続ける。
奇跡の一撃で全員が救われるわけではない。
一人の声へ、別の一人が応える。
村はその遅さで、眠りから戻り始めた。
母を「娘を置いていった人」や「魔王軍幹部」だけにしない。
パンを焦がし、髪を梳き、笑ったセレナを歌の中へ連れ戻す。
レクイエムは白い手を上げる。
呪歌の刃がリリアへ向かう。
刃の先が震える。
レクイエムの契約は攻撃を命じるが、セレナの残滓が娘を避けようとしている。
エミと魔獣たちが前へ立つ。
リリアは一度、歌を止めかけた。
妹たちが傷つく姿を見れば、また自分が前へ出たくなる。
エミが振り返らず、手だけを上げる。
歌を続けて、という合図だった。
リリアは歌を止めない。
「戻ってきて」とは歌わなかった。
戻ってきてほしい本音はある。
それでも、母へ娘の望む姿を強制すれば、魔王軍と同じになる。
十二年をなかったことにはできない。
母を元の暮らしへ戻せるとも思わない。
今も生きている娘たちを見てほしかった。
リリアが笑えない朝も、エミが前へ立つ姿も、三匹が自分で選ぶことも。
守ろうとした娘たちは、痛みのない人間ではなく、痛みを抱えて選べる人間になった。
泣き、怖がり、それでも互いを守って立つ二人を。
白髪の女の頬へ、一筋の涙が流れた。
呪歌の旋律へ、別の音が混じる。
セレナが家族の曲につけた、低い和音。
母の身体が歌を覚えている。
灰色の瞳に、わずかな色が戻る。
「その歌」
呪歌が一音途切れた。
眠っていた村人の一人が、指を動かす。
母へ届く歌は、同時に村の人々へ生きる記憶を返していた。
リリアは母へ手を伸ばす。
「私たちは、ここにいるよ」
「大丈夫だからじゃない」
リリアの声は泣いている。
「大丈夫じゃなくても、ここにいる」
レクイエムの表情が、ほんの一瞬だけセレナへ戻る。
セレナの瞳に、焼け落ちる前の舞台が映る。
同時に、契約印も反応した。
黒い鎖が首元から伸び、セレナの耳へ絡む。家族の歌を聞かせまいと、魔王の命令が内側から音を塞ぐ。
エミが短杖を伸ばす。
届かない。
チビの音も、クロの影も、ハナの花粉も、今は外側の鎖までしか触れられない。
内側の鎖は、セレナ自身が掴まなければ動かない。
リリアは歌を強めようとして、やめた。
力で押し込めば、それも命令になる。
だから声を小さくした。
「聞こえなくても、ここで歌う」
届かせることを急がない。
母が自分で聞こうとする余白を残す。
八歳のリリアが歌詞を忘れ、客席へ背を向けた。母は舞台袖から答えを教えず、ただ同じ旋律を低く歌った。
娘が自分で次の言葉を見つけるまで、待った。
今度はリリアが待つ。
母へ正しい答えを押しつけず、途切れた和音の先を空けておく。
長い沈黙の後、レクイエムの唇が動いた。
歌詞ではない。
家族だけが知る、曲の合間の息遣いだった。
リリアは、その小さな返事を聞き逃さない。
伸ばした手が、攻撃ではなく娘の頬を撫でる形になる。
触れる直前で止まり、許しを求めるように揺れる。
リリアから頬を寄せた。
冷たい手だった。
唇が震えた。
「リリア……エミ……」
母の声だった。
エミが振り返り、初めて短杖を下ろしかける。
その瞬間、レクイエムの首元で黒い契約印が開いた。
母の記憶を取り戻させまいと、鎖が空から降り始める。
「あなたたちは、まだ歌えるのね」
その言葉は祝福のようで、別れのようでもあった。
セレナの目はリリアではなく、エミの傷ついた手と三匹の黒い筋を見ている。
娘たちが守られるだけの子どもではないと知った瞬間、契約の命令もまた形を変えた。
眠らせて守る対象ではなく、抵抗する者として排除する。
鎖の先が鋭く尖る。
リリアは母の手を離さなかった。
「まだ歌える。だから、お母さんにも選んでほしい」




