表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
71/102

第071話 解放

 

 レクイエムの呪歌の中へ、一本の旋律が通った。


 最初の音は低すぎ、二つ目は掠れた。


 いつもの公演なら、伴奏を止めてやり直す。


 今は間違えた音もそのまま次へ繋ぐ。


 父アルノが、家族だけの夜に弾いた曲。


 題名はなかった。


 父がその日の出来事を即興で歌い、母が続きをつけ、娘たちが笑うための曲だった。


 だから決まった歌詞も、正解の旋律もない。


 リリアの声は震えている。


 舞台で使う完璧な声ではない。


 観客を励ますための声でもない。


 怖い、会いたかった、どうしてという感情が、そのまま音へ混じる。


 息が途切れ、涙で音が掠れる。


 それでも歌う。


 一度、完全に止まった。


 母がこちらを見たからではない。


 歌詞の中で、父の名を出そうとした時だった。


 アルノ。


 その一語が喉へ貼りつき、出てこない。


 父の死を母へ返せば、母が壊れてしまう気がした。けれど父を避けて家族の歌を作れば、十二年前に幕を支えた人をまた置き去りにする。


 リリアは息を吸い直した。


「父さんは、また会おうって嘘をついたんじゃない」


 旋律ではなく、言葉が先に出た。


「会おうとして、私たちを行かせた」


 音程はない。


 それでもレクイエムの瞳が揺れる。


 歌は綺麗な旋律だけではない。


 言えなかったことを、相手へ届く形にすることだった。


 母がパンを焦がした朝。


 父が転んでリュートを守った夜。


 幼いエミが魔獣へ菓子を全部渡し、家族四人のおやつがなくなった日。


 アルノが雨漏りを直して屋根をさらに壊した日。


 セレナが怒りながら、最後には皆で濡れて笑った夜。


 英雄的ではない、誰にも記録されない家族の時間。


 失った瞬間だけではなく、失う前に確かにあった時間を歌へ戻す。


「朝のパンは黒くて、父さんの靴には穴があいて」


 歌詞にすると、あまりに格好が悪い。


 それでよかった。


「エミは木の実を隠して、母さんは全部知っていた」


 エミが戦いながら「隠してない」と返す。


 声が少し裏返り、チビが抗議するように鳴いた。


 リリアは泣きながら笑う。


 笑ったために音程が外れた。


 その外れた音へ、眠っていた宿の女主人が小さく息を吸う。彼女の指が床を探り、倒れた籠の取っ手を掴んだ。


 鍛冶屋の口が、亡き妻の名を呼ぶ。


 鐘守の男は目を閉じたまま、助けられなかった隣人へ謝った。


 歌は傷を消さない。


 眠りの底で手放しかけた名前を、本人のもとへ返していく。


 村の各所から、別々の声が重なった。


 子どもが祭りの歌を一節。老人が若い頃の労働歌を一節。歌えない者は床を叩き、呼吸だけを合わせる。


 リリア一人の歌が村を救うのではない。


 受け取った者が、自分の朝を呼ぶ声へ変えている。


 宿の女主人は、目を閉じたまま鍋を叩いた。


 鍛冶屋は低い声で、妻が好きだった洗濯歌を歌う。歌詞は半分間違っていたが、誰も直さない。


 鐘守の男は涙を流しながら鐘を一度だけ鳴らした。


 助けられなかった隣人のためではなく、今ここにいる者を起こすために。


 眠っていた人々は、目覚める者もいれば、まだ沈んだままの者もいる。


 それでも家族が名前を呼び続ける。


 奇跡の一撃で全員が救われるわけではない。


 一人の声へ、別の一人が応える。


 村はその遅さで、眠りから戻り始めた。


 母を「娘を置いていった人」や「魔王軍幹部」だけにしない。


 パンを焦がし、髪を梳き、笑ったセレナを歌の中へ連れ戻す。


 レクイエムは白い手を上げる。


 呪歌の刃がリリアへ向かう。


 刃の先が震える。


 レクイエムの契約は攻撃を命じるが、セレナの残滓が娘を避けようとしている。


 エミと魔獣たちが前へ立つ。


 リリアは一度、歌を止めかけた。


 妹たちが傷つく姿を見れば、また自分が前へ出たくなる。


 エミが振り返らず、手だけを上げる。


 歌を続けて、という合図だった。


 リリアは歌を止めない。


「戻ってきて」とは歌わなかった。


 戻ってきてほしい本音はある。


 それでも、母へ娘の望む姿を強制すれば、魔王軍と同じになる。


 十二年をなかったことにはできない。


 母を元の暮らしへ戻せるとも思わない。


 今も生きている娘たちを見てほしかった。


 リリアが笑えない朝も、エミが前へ立つ姿も、三匹が自分で選ぶことも。


 守ろうとした娘たちは、痛みのない人間ではなく、痛みを抱えて選べる人間になった。


 泣き、怖がり、それでも互いを守って立つ二人を。


 白髪の女の頬へ、一筋の涙が流れた。


 呪歌の旋律へ、別の音が混じる。


 セレナが家族の曲につけた、低い和音。


 母の身体が歌を覚えている。


 灰色の瞳に、わずかな色が戻る。


「その歌」


 呪歌が一音途切れた。


 眠っていた村人の一人が、指を動かす。


 母へ届く歌は、同時に村の人々へ生きる記憶を返していた。


 リリアは母へ手を伸ばす。


「私たちは、ここにいるよ」


「大丈夫だからじゃない」


 リリアの声は泣いている。


「大丈夫じゃなくても、ここにいる」


 レクイエムの表情が、ほんの一瞬だけセレナへ戻る。


 セレナの瞳に、焼け落ちる前の舞台が映る。


 同時に、契約印も反応した。


 黒い鎖が首元から伸び、セレナの耳へ絡む。家族の歌を聞かせまいと、魔王の命令が内側から音を塞ぐ。


 エミが短杖を伸ばす。


 届かない。


 チビの音も、クロの影も、ハナの花粉も、今は外側の鎖までしか触れられない。


 内側の鎖は、セレナ自身が掴まなければ動かない。


 リリアは歌を強めようとして、やめた。


 力で押し込めば、それも命令になる。


 だから声を小さくした。


「聞こえなくても、ここで歌う」


 届かせることを急がない。


 母が自分で聞こうとする余白を残す。


 八歳のリリアが歌詞を忘れ、客席へ背を向けた。母は舞台袖から答えを教えず、ただ同じ旋律を低く歌った。


 娘が自分で次の言葉を見つけるまで、待った。


 今度はリリアが待つ。


 母へ正しい答えを押しつけず、途切れた和音の先を空けておく。


 長い沈黙の後、レクイエムの唇が動いた。


 歌詞ではない。


 家族だけが知る、曲の合間の息遣いだった。


 リリアは、その小さな返事を聞き逃さない。


 伸ばした手が、攻撃ではなく娘の頬を撫でる形になる。


 触れる直前で止まり、許しを求めるように揺れる。


 リリアから頬を寄せた。


 冷たい手だった。


 唇が震えた。


「リリア……エミ……」


 母の声だった。


 エミが振り返り、初めて短杖を下ろしかける。


 その瞬間、レクイエムの首元で黒い契約印が開いた。


 母の記憶を取り戻させまいと、鎖が空から降り始める。


「あなたたちは、まだ歌えるのね」


 その言葉は祝福のようで、別れのようでもあった。


 セレナの目はリリアではなく、エミの傷ついた手と三匹の黒い筋を見ている。


 娘たちが守られるだけの子どもではないと知った瞬間、契約の命令もまた形を変えた。


 眠らせて守る対象ではなく、抵抗する者として排除する。


 鎖の先が鋭く尖る。


 リリアは母の手を離さなかった。


「まだ歌える。だから、お母さんにも選んでほしい」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ