第068話 歌う前に
レクイエムの呪歌が始まると、村人が立ったまま眠りへ落ちた。
鐘を鳴らそうとした男は縄を握った姿勢で止まり、パンを運ぶ女は籠を抱いたまま膝をつく。
眠りは一斉ではない。
「もう頑張らなくてよい」と思った者から深く沈んでいく。
エミと三匹の魔獣が走る。
チビが高い場所から安全な道を探し、クロが倒れる人を支える。ハナは三人ずつ抱え、建物の中へ運んだ。
エミは眠る人の名を聞き、札へ書く。
目覚めた時に家族が探せるよう、運んだ場所も残す。
戦いの最中にも、眠った後の生活を守る。
リリアは広場の中央で、母へ向き合う。
燃舞は抜かない。
剣を握れば、戦う役割へ逃げられる。
今必要なのは、娘として声を出すことだった。
彼女は最初、父の言葉をそのまま歌おうとした。
転んでも、笑って逃げろ。
何度も支えられた言葉だ。
けれど口に乗せようとした瞬間、違うと分かった。
今の母へそれだけを渡せば、また笑って耐えろという命令になる。十二年前、父が残したのは逃げるための合図であって、痛みを隠すための鎧ではない。
リリアは歌詞を破り捨てた。
準備した言葉がなくなり、手が空になる。
怖さが増す。
けれど、借り物の勇気では母へ届かない。
歌を返そうと息を吸う。
声が出ない。
喉に傷はない。
呪歌が封じているのでもない。
母へ届かなかった時、最後の希望まで失うことが怖くて、自分で音を止めている。
レクイエムの旋律が心へ入り込む。
生きれば、また失う。
拍手はいつか止む。
村はまた焼かれるかもしれない。
エミも魔獣たちも、自分より先に死ぬかもしれない。
愛するほど、失うものは増える。
父を失った。
母を失った。
今度はエミも失う。
眠れば、もう怖がらなくてよい。
それは死ねという命令より甘い。
少し休むだけ、目を閉じるだけと囁くため、疲れた心ほど抗えない。
広場の端で、宿の女主人が眠りへ沈む。
昨日まで負傷者へ寝床を譲り、自分は厨房の椅子で眠っていた人だ。鍛冶屋は焼けた家を直し続け、妻の墓へ行く時間も取らなかった。鐘守の男は、逃げ遅れた隣人を助けられなかった罪を一人で抱えている。
レクイエムの歌は、弱い者から狙っているのではない。
弱さを隠して働き続けた者ほど、深く眠らせる。
それはリリア自身と同じだった。
眠りへ沈む前、宿の女主人がリリアへ目を向けた。
声は出ない。
それでも唇が「休んで」と動いた。
レクイエムの歌に引かれながら、なお他人を気遣っている。
鍛冶屋は亡き妻の名を呼び、膝をつきながらも集会所の扉を押さえた。鐘守の男は目を閉じたまま鐘の縄を結び、自分が眠っても誰かが鳴らせるようにした。
村人たちは完全に無力ではない。
それぞれが沈みながら、次の誰かへ手順を残している。
リリアはその姿を見て、ようやく理解した。
休みたいと願うことは罪ではない。
ただ、その願いを利用して選択を奪う歌だけが間違っている。
公演の後、誰もいない馬車で膝を抱えた夜がある。エミの寝息を確かめてから、明日の食費を数え、足りない分だけ自分の食事を減らした。
熱があっても舞台へ立った。笑えば誰かが安心するから、笑えない日は顔へ色を塗った。
一度だけ、朝が来なければ楽なのにと思った。
その考えを持った自分を、ずっと恥じていた。
母の歌は、その秘密まで知っているように優しく包む。
休みたかった自分を責めなくてよい。
けれど、休むことと永遠に選択を奪われることは違う。
リリアは地面へ片手をついた。冷たい土の感触を確かめる。遠くでエミが眠った人の名を呼び、返事がなくても一人ずつ運んでいる。
目覚めた後の場所を作っている。
なら、自分も朝へ戻る歌を作らなければならない。
膝から力が抜ける。
母の歌は優しかった。
幼い頃、本当に熱や悪夢から守ってくれた声だ。
偽物の優しさではない。
本物の愛が、終わりへ向きを変えられている。
痛みを終わらせるという言葉だけなら、抱かれていた頃と変わらない。
「お姉ちゃん!」
エミの声が届く。
リリアは辛うじて目を開けた。
「歌えない」
「うん」
エミは「歌える」と励まさない。
できない今を否定すれば、また姉へ役割を押しつける。
エミは否定しない。
「でも、お母さんを倒したくない」
「私も」
「歌で、呼び戻す」
「戻らなかったら?」
「それでも、鎖を探す」
「私の歌が届かなかったら?」
「私が聞いてる」
エミは姉の声の価値を、母の反応だけへ預けない。
母が覚えている旋律。父のリュート。四人で過ごした夜。
完璧な歌詞は要らない。
母が忘れた日常を、娘たちが覚えている言葉で渡せばよい。
レクイエムの中に残るセレナへ届く道は、リリアの歌しかない。
「声が出るまで、私が止める」
チビたちの傷はまだ治っていない。
エミ自身も防御陣で魔力の半分を使った。
それでも時間を稼ぐと決める。
「危険よ」
「知ってる」
エミは短杖を構えた。
守られる妹の後ろ姿ではない。
自分で役目を選んだ相棒の背中だった。
リリアは妹を止めたい気持ちを抱えたまま、止めなかった。
信じることもまた、姉の新しい役目だった。
「私が時間を稼ぐ。お姉ちゃんは、歌の準備をして」
エミが走り出した後、リリアは父のリュート箱へ手を伸ばす。
蓋は開けない。
父の音を借りなければ歌えないのではなく、父から受け取ったものを自分の声で鳴らすためだ。
それでも、リュート箱の金具へ指を置いた。
木の冷たさは、父の手とは違う。
父はもういない。
母も、昔のまま戻るとは限らない。
エミも三匹も、傷つかず帰れる保証はない。
保証がないから歌えないのではなく、保証がない世界で何を選ぶかを歌うのだと、リリアは自分へ言い聞かせる。
「私も、生きていたい」
初めて、誰かを守るためではない言葉が出た。
小さすぎて、呪歌には掻き消される。
それでもリリアの喉は、その一言で少し開いた。
両手を喉と胸へ当てる。
最初に歌う言葉を探すのをやめた。
言葉より先に、家族四人で笑った夜の呼吸を思い出す。
吸って、止めて、吐く。
母に教わった呼吸を、今度は母の呪歌へ抗うために使う。胸の震えが消えなくても、最初の音を置けるだけの空間が喉に生まれた。
歌わせられるのではない。自分で、歌う。
その違いを、まず自分の身体に覚えさせる。
リリアはもう一度、息を吸った。
今度は母のためだけではなく、自分が朝へ戻るために。




