第067話 セレナという女の話
解放した角獣の記憶へ、エミが短杖を通して触た。
防御陣で最初の呪歌を退けたあと、角獣が自分から首輪の記憶を差し出した。
過去を見ることは、魔獣にも痛みを伴う。
エミは強制せず、角獣の額へ手を置いて「一緒に見る」と伝えた。
角獣はすぐには頷かなかった。
傷口は塞がりかけていたが、首輪の記憶へ触れれば、痛みはまた新しくなる。森へ帰るだけなら、もう十分動ける。
エミは短杖を下ろした。
「見せなくても、あなたは自由」
情報が欲しい。
母を救う手がかりが欲しい。
けれど助けた相手へ、今度は自分たちの都合で過去を差し出させるなら、首輪と形が変わらない。
角獣は長く森を見た。
それから、自分の角を地面へ押しつけた。
逃げられるのに残る、という合図だった。
クロが隣へ座り、ハナが大きな体で風を遮る。チビは角獣の鼻先へ木の実を置いた。
記憶を見るのは姉妹だけの作業ではない。
魔獣たちも、痛みを分け合う位置を自分で選んだ。
黒い首輪には、十二年前の実験場で見た光景が残っている。
リリアも短杖へ触れる。
姉妹は同じ記憶を、別々の痛みとして受け取った。
燃える舞台。
逃げ惑う旅芸人。
魔王軍は偶然一座を襲ったのではない。
事前に公演地と演目を調べ、歌い手、炎魔法使い、魔獣使いを分類していた。
旅芸人は身寄りが少なく、土地の権力者も捜索しない。実験台として消しても記録へ残りにくいと選ばれた。
歌や魔獣使いの魔力が、不死術式の魂を固定する錨に使えるか試していた。
人々へ希望を渡す力が、魂を拘束するために利用された。
記憶の端には、知らない一座の顔もあった。
笑い皺の深い道化師。
片腕で太鼓を叩く女。
火を怖がる子どもへ、紙の鳥を渡していた老人。
彼らにも名前があり、待つ人がいたはずだった。
魔王軍の台帳では、全員が「歌唱資源」「獣性媒介」「火性補助」とだけ分類されている。
リリアは吐き気をこらえる。
母の過去を知るために見た記憶は、母だけの悲劇ではなかった。
旅芸人という生き方ごと、都合のよい材料にされた。
「覚えておく」
リリアは震える声で言った。
母の名だけを取り戻すのではない。
名を奪われた者たちがいたことも、歌に残さなければならない。
父アルノが燃える幕を落とす。
八歳のリリアへ、四歳のエミを託す。
「また会おう」
その直後、実験途中の不死術式が暴走した。
魂を固定するはずの黒い光が父の背を貫き、命そのものを削った。
アルノは振り向かなかった。
娘たちへ最後に見せる顔を、恐怖ではなく笑顔にした。
その笑顔は、痛みを隠せという命令ではない。
走り続けるための贈り物だった。
アルノは倒れても、幕の綱を離さなかった。
娘たちが森へ消えるまで、道を塞いだ。
セレナは夫へ駆け寄ろうとした。
アルノが最後の力で首を振り、娘たちの方角を示す。
二人とも、最後まで同じものを守った。
母セレナも、同じ術式の余波で致命傷を負っていた。
追っ手の術が背へ入り、肺まで届いている。
このままなら数分で死ぬ。
娘たちへ追いつくことも、警告を届けることもできない。
地面には不死術式が広がり、魔王軍の術者が問いかける。
娘を守りたいか。
なら魂を差し出せ。
魔王本人の声ではない。
不死術式へ組み込まれた契約文が、最も捨てられない願いを使って選択を迫る。
自由な同意ではなかった。
契約すれば、追っ手を止める力を与える。
セレナは娘たちの生存を錨にした。
「あの子たちへ、触れないで」
契約時の最後の言葉だった。
術式は願いを叶え、同時に歪める。
娘を苦しませる全てを眠らせればよい、という命令へ変換した。
自分の魂の一部を魔王へ渡し、術式を受け入れる。
白い光が追っ手を眠らせた。
森へ向かった兵も倒れ、姉妹は逃げ切った。
母の選択が二人の命を救ったことは事実だった。
その代わり、母の記憶から夫の顔が消え、娘たちとの日々が削られていく。
最初に失ったのは、公演の曲名。
次にアルノの声。
最後まで残ったのは、娘たちの名前と「苦しませたくない」という願いだった。
セレナという名も薄れ、残ったのは苦しみを眠らせる役目だけ。
レクイエム。
記憶はそこで終わらなかった。
角獣の視界に、契約後のセレナが映る。
白く変わった髪を兵に掴まれ、立たされる。最初の命令は、逃げ残った一座の仲間を眠らせることだった。
セレナは一度、自分の喉を爪で傷つけた。
歌えなければ、命令も果たせない。
だが不死術式は傷を塞ぎ、声だけを元へ戻した。痛みは残し、抵抗の結果だけを消す。
次に彼女は、音程をわざと外した。
眠りは浅くなり、仲間の一人が逃げた。
術者は怒り、セレナからアルノの笑い声の記憶を削った。彼女はその場で膝をつき、何を失ったか分からないまま泣いた。
抵抗には、毎回代価があった。
それでもゼロにはならなかった。
角獣の首輪が緩んだのも、その小さな失敗の積み重ねだった。
セレナは歌わない。
術者が首元の契約印へ針を差し込み、娘たちがまだ追跡されている幻を見せる。それでも唇を閉じたため、今度は眠っている角獣へ刃を向けた。
歌わなければ、守ろうとした命を別の場所で奪う。
選択の形をした命令が、十二年繰り返された。
最初の歌は小さく、兵一人を眠らせるだけだった。次は野営地全体、その次は村一つ。使うほど不死術式はセレナの記憶を報酬として奪い、力を増した。
角獣は、その歌で一度眠らされた。
目覚めた時、首輪が外れかけていた。レクイエムが命令へ逆らった痕跡だった。完全には救えなくても、鎖を一本緩めていた。
だから角獣は、この記憶を姉妹へ渡した。
母を無実にするためではない。
十二年間、抵抗が一度も途切れなかったことを、娘たちに知らせるためだった。
記憶を見終えた角獣の脚が崩れる。エミは短杖を離し、その巨体をクロと一緒に支えた。
「ありがとう。もう見せなくていい」
必要な情報を得た後も、痛みを差し出した相手を道具として置き去りにしない。
角獣は荒い息を吐き、エミの手へ額を預けた。
「お母さんは、選んだ」
エミが記憶から戻る。
「私たちが逃げる時間を作るために」
「私がエミを連れていったから、お母さんは」
リリアが自分を責めかける。
「違う」
エミが止める。
「選ばせたのは魔王軍。お姉ちゃんじゃない」
姉が何でも自分の責任へ変える癖を、妹が言葉で断つ。
リリアは泣きながら、父のリュートを抱いた。
母の選択を正しいとは言えない。
魔王軍が選ばせた契約だ。
それでも始まりにあったのは、娘を守りたい愛だった。
角獣が低く鳴いた。
記憶を渡した後、彼は姉妹から少し離れた。礼を求めているのではない。見せたものを、勝手に美しい物語へ変えられたくないのだとエミには分かった。
「分かってる」
エミは角獣へ向き直る。
「お母さんが苦しかったことと、あなたたちが苦しめられたことは、別に数える」
母の事情で、被害を小さくしない。
角獣はそれを聞いて、ようやく目を閉じた。
リリアも頷く。
母を救いたい娘である前に、眠らされた村人と使役された魔獣の前に立つ旅芸人でもある。
愛から始まったからこそ、愛だけで今の行為を許すこともできない。
眠らされた村人、使役された魔獣、奪われた舞台。
母を理解することと、止めることは両立する。
「お母さんは、私たちを守るためにそうしたのね」
リリアの声に、怒りも混じっていた。
守るために自分を捨てた母へ。
そんな選択しか残さなかった魔王軍へ。
同じことを自分もエミのために繰り返しかけていたことへ。
遠くで呪歌が響く。
愛から始まった力が、今は娘たちの生を奪おうとしていた。




