第069話 エミが時間を稼ぐ
エミは三匹の魔獣と共に、呪歌の中心へ走った。
足は震えていた。
十六歳の少女が、母の顔をした魔王軍幹部へ一人で向かう。
怖くないはずがない。
それでも短杖の先は下げなかった。
リリアから距離を取る。
母の意識を自分たちへ向け、歌う時間を作るためだ。
「チビ、音を散らして」
チビが墓石と屋根を跳び、金属片を鳴らす。呪歌の波が細かく分かれた。
小さな身体だから、音の隙間へ潜り込める。
一つの強い音を、多数の弱い反響へ崩す。
だが、散らした音の一つが集会所へ流れた。
眠っていた子どもが身を起こし、扉へ手を伸ばす。
チビが屋根の上で固まった。
自分の動きが、守るべき場所へ隙を作った。
エミは叱らない。
「右の鐘へ逃がして」
チビはすぐ走り直した。音を消すのではなく、空の鐘へぶつけて逃がす。鐘は低く鳴り、集会所の中の大人が子どもを抱き止めた。
失敗しても、次の一手がある。
エミはそれをチビへ信じさせたかった。
「クロ、影を追って」
クロがレクイエムの足元へ回り、動きを止める。
レクイエム本体ではなく、地面へ伸びる契約印の影を踏む。
姿が霧へ変わっても、鎖の起点だけは逃げられない。
「ハナ、匂いを」
ハナが花粉を含む息を吐き、眠りの香りを薄めた。
母と同じ花油の匂いも消えていく。
エミは懐かしさに頼らず、目の前の行為を見ることができる。
その代わり、ハナ自身が最も強く匂いを吸い込んだ。
大きな身体が揺れる。
見世物小屋で拍手に怯えていた記憶が、眠りの香りと混じって戻る。逃げたいという感情が、エミへ伝わった。
「下がって」
エミはすぐ言った。
ハナは首を振る。
怖い。
でも、怖いからこそ、眠らされる者のそばにいる。
ハナは前足で地面を叩き、自分の意思を示した。
エミは「ありがとう」とだけ言い、背中ではなく横腹へ手を添える。
無理を美談にしない。
立つと選んだ仲間が倒れないよう、支え方を変える。
レクイエムは攻撃を受けても怒らない。
三匹を敵とも見ていない。
眠らせて救う対象として、同じ優しさを向ける。
相手の意思を見ない慈悲だった。
ただ、子守歌を続ける。
「小さな子。あなたも眠りなさい」
「小さくない」
エミは一度目より強く言う。
「でも、子どもでもいい。子どもだって、選べる」
声が、母セレナのものへ重なる。
四歳のエミは、熱を出した夜にその声で眠った。
母の指を握り、朝には必ずいると信じて目を閉じた。
今目を閉じれば、同じ朝は来ない。
短杖を握る手が緩む。
レクイエムの胸元に、母がつけていた小さな銀飾りが見える。
走って抱きつきたい気持ちが、戦う決意と同時にある。
眠れば、母の膝へ戻れる気がした。
クロが鼻先で手を押す。
チビが肩へ飛び乗る。
ハナが背中を支える。
今の家族が、ここにいる。
過去の母を選べば、今の家族を失う。
どちらかを愛してはいけないのではない。
両方を愛したまま、今守る相手を選ぶ。
「いや」
エミは短杖を握り直した。
「お姉ちゃんを、連れていかないで」
「あなたも娘」
「うん。だから、止める」
娘であることを捨てず、敵の行為を拒む。
レクイエムの歌が強くなる。
墓石の間から、眠りの糸が幾重にも伸びた。
一本がチビの尾へ絡む。チビは無理に引き千切らず、墓石を三つ回って糸を柱へ巻きつけた。動きを止める術を、自分の速さで逆に固定する。
クロは契約印の影を踏み続けるが、前脚から灰色へ染まり始める。
エミは短杖を振り、クロとの魔力接続を一度切った。
繋がりを強めれば命令を届けやすい。だが今は、呪歌がその道を逆流している。離すことも、守るための選択だった。
「十息だけ、自分で走って」
クロが一度だけ耳を振る。
返事だった。
十息目で戻らなければ、エミが迎えに行く。
そう決めて、心の中で数え始める。
一。
二。
クロの前脚はさらに灰色へ染まる。
三。
四。
契約印の影が鞭のように跳ね、クロの肩を打った。
五。
エミは走り出しそうになる。
六。
クロが牙で自分の影を噛み、呪歌の回路を一瞬だけ断った。
七、八、九。
十。
クロは約束の息で戻ってきた。
完璧な勝利ではない。
前脚は震え、毛の一部が白く変わっている。
それでも、戻る約束を守った。
ハナは前脚で地面を叩き、花油を含んだ霧を上空へ押し返す。重い身体へ糸が集中し、皮膚の下まで黒い筋が入った。
エミはハナの前へ飛び出す。
自分が盾になれば、姉と同じことを繰り返す。
そう気づき、横へ並んだ。
「半分ずつ」
ハナが唸り、肩でエミを押し戻す。半分より多く受けるつもりらしい。
「ずるい」
こんな時なのに、エミの口元がわずかに緩む。
レクイエムが初めて歌を止め、銀飾りへ触れた。
その指は、幼いエミを叱る前の母と同じ動きをする。
「どうして、眠らないの」
声には命令だけでなく、理解できない痛みがあった。
「苦しいのに」
「苦しいから、起きてる」
エミは答える。
「起きて、お姉ちゃんに苦しいって言うために」
十二年前の母へも届いてほしい言葉だった。
三匹の身体へ黒い傷が走った。
チビが屋根から落ち、エミが受け止める。
クロの前脚が沈み、ハナが身体で支える。
一匹が傷つけば、残りが穴を埋める。
エミは命令で前へ出さない。
「下がってもいい」
「私だけ残る」とは言わない。
三匹にも選ぶ権利を返す。
三匹は下がらなかった。
エミが命令したからではない。
リリアの歌を待ち、母を解放したいというエミの願いを、自分たちの願いとして選んだ。
自分たちで選び、エミの隣へ立つ。
その背後から、震える一音が聞こえた。
完璧ではない。
だからすぐ、姉の本当の声だと分かった。
エミはその一音に頼りきらない。
姉が歌い出したから、自分たちの役目が終わるわけではない。
むしろ、ここからが一番危ない。
レクイエムの注意がリリアへ向けば、呪歌の刃もそちらへ向く。
「守りを半分、歌へ」
エミが言うと、三匹はそれぞれ違う形で応じた。
チビは音の道を作り、クロは影の刃を踏み、ハナは眠りの香りを地面へ押し込む。
姉の歌が届く通路を、エミたちが身体で開く。
リリアが歌声だけで、父のリュートの旋律をなぞり始める。
エミはその一音を合図に、切っていたクロとの接続を戻した。
四つの魔力が再び繋がる。
今度の輪は、誰か一人を中心にしない。傷も力も四方へ分かれ、全員の足を半歩ずつ前へ運んだ。
稼いだ時間は、姉へ渡したのではない。
姉妹と三匹で、一緒に次の一音へ辿り着いた時間だった。
エミは振り返らず、短杖を高く掲げる。続きを歌って、と姉へ渡す合図だった。




