第062話 魔王軍との小競り合い
レクイエムの呪歌が、朝霧と一緒に村へ近づいていた。
遠くの家から順に、窓辺の灯りが消えていく。
眠りの波が到着するまで、半刻もない。
エミは地図へ三匹の配置を描き、村人を石造りの集会所へ移すよう頼んだ。
昨日までなら、リリアの判断を待っていた。
今は自分で決める。
最初の指示は、うまく通らなかった。
集会所へ向かう途中で、鍛冶屋の老人が立ち止まる。
「家に妻の位牌がある。置いていけん」
別の女は、眠ったままの弟を背負おうとして転びかけた。子どもたちはチビを見失い、泣き声で互いを呼び合う。
エミの声は小さい。
広場の混乱の中では、届かない。
リリアが一歩前へ出ようとする。
エミはそれを止めず、代わりに地図の端を指した。
「お姉ちゃん、声を貸して」
前に立つことと、全部を一人でやることは違う。
リリアは涙を拭わないまま、舞台で使う声を村へ投げた。
「位牌は後で必ず取りに行くわ! 今は生きている人から!」
村人の足が動く。
エミはその隙に、眠った弟を運ぶ順番を変えた。ハナが重い者を抱え、クロが老人を誘導し、チビが子どもたちを一列にする。
エミの作戦は、姉の声を借りて初めて村へ届いた。
それが悔しくはなかった。
一人でできないことを認めても、前に立つ資格は消えない。
エミは馬車の前へ一人で立つ。
本当は一人ではない。
チビは肩、クロは足元、ハナは馬車の横にいる。
けれど人間として最初の一歩を出すのは、エミ自身だった。
「下がって」
リリアが追いかけてきた。
声は震え、化粧のない顔は青い。
「危ないの。お姉ちゃんが」
「下がらない」
エミは短く答えた。
「守られるだけじゃ、もう嫌なの」
「私が守りたくて守ったのよ」
リリアの声が強くなる。
「知ってる」
「なら」
「でも、お姉ちゃんが壊れるまで守られたくない」
初めて、感謝と不満を同時に伝えた。
どちらかだけでは、姉妹の十二年を嘘にしてしまう。
リリアが言葉を失う。
エミはずっと感謝していた。
父が戻らなかった夜、手を引いて走ってくれたこと。食事が一人分しかない日に、自分は空腹ではないと笑ったこと。怖い観客の前へ、先に立ってくれたこと。
病気の夜には眠らず額を冷やした。
初めて魔獣を馬車へ乗せた時、怖がる町の人々へ頭を下げた。
エミが小さな声でも、最後まで聞いた。
同時に、苦しかった。
リリアが倒れそうでも、自分のためだから休めないと言われる。
手伝おうとすれば「危ないから」と後ろへ戻される。
姉を愛しているのに、自分の存在が姉を追い詰める理由になるのが怖かった。
姉が自分のために疲れ、泣かず、壊れていくのを後ろから見るしかなかった。
「私、お姉ちゃんの隣にいるだけじゃない」
「隣にいることしかできないと思ってた。でも、隣から前へ出ても、家族のままでいられる」
チビが右肩へ乗る。
クロが左側へ立ち、ハナが背後を守る。
「みんなと戦える。私が選べる」
チビが小さく鳴き、クロとハナを見る。
三匹もエミの言葉に従って並ぶのではなく、自分の場所を選んで立った。
リリアは妹を下げようと手を伸ばした。
エミはその手を握る。
「お姉ちゃんは泣いていていい」
「泣いたら、止まれない」
「止まるまで、私がいる」
「エミまで怖くなる」
「もう怖いよ」
エミの声も震えている。
「怖いまま、前に出る」
リリアの目から、押さえていた涙が一滴落ちた。
すぐ拭おうとした手を、エミが止める。
涙を隠す仕事まで、姉にさせない。
「私が戦う」
十二年前、燃える幕の向こうでリリアはエミを守った。
今度はエミが前へ立つ。
それは姉の犠牲を否定することではない。受け取ったものを返すことだった。
リリアは長く迷い、手を離した。
守る側を降りることは、妹を見捨てることではない。
エミの力を信じる選択だった。
「お願い」
守る役割を渡す言葉だった。
エミは地面へ短杖を立てる。
チビ、クロ、ハナの魔力が三角形に繋がり、馬車と村を覆う防御陣になる。
チビの光は高く、クロの光は外周へ、ハナの光は地面へ深く広がる。
三匹の性質を一つに潰さず、それぞれの得意な場所で結ぶ陣だった。
呪歌の最初の波が届いた。
防御陣が軋み、エミの膝が沈む。
集会所の窓が一斉に鳴った。
一枚の窓が割れた。
破片が床へ散り、眠りかけていた子どもが外へ歩き出す。
リリアが駆け寄るより早く、さっき妻の位牌を置いてきた鍛冶屋が子どもを抱え込んだ。
「こっちは任せろ!」
彼の声に、ほかの村人も動く。
女たちは布を窓へ押し当て、若者たちは長椅子を扉の前へ積む。耳栓を落とした者へ、別の誰かが予備を渡す。
守られるだけの人間はいない。
眠りの歌へ抗える者から、自分の隣を支えていく。
エミはその音を背中で聞いた。
村を守るのは自分たちだけではない。
だから、防御陣を少し外へ広げられる。
眠りへ引かれた村人たちが、扉へ向かって歩き始める。目は閉じたままなのに、外から呼ぶ歌へ身体だけが応じていた。
「扉を縛って!」
エミは振り返らず叫ぶ。
リリアが即座に動いた。舞台用の綱を柱へ回し、老人と子どもを壁際へ移す。前に出る妹をただ見守るのではなく、託された後方を守る。
「左、薄くなってる!」
姉の声で、エミは陣の歪みに気づく。
クロが左辺へ走り、ハナが沈んだ地面へ爪を立てた。チビはエミの肩から飛び、屋根の風見へ魔力の糸を結ぶ。三角形だった陣が、村の建物を支点にした大きな五角形へ広がった。
エミ一人の力ではない。
姉の目と、三匹の判断と、村人が残した柱や綱が合わさっている。
今までのリリアは、守る時ほど周囲から役目を奪った。今のエミは、できる者へ役目を渡し、自分もその一人として立つ。
二度目の波が陣を叩く。
腕へ痺れが走り、短杖の先に亀裂が入った。エミは痛みを隠さない。
「お姉ちゃん、あと三回は保つ。四回目が来たら教えて」
「分かった。三回で次を考える」
無限に耐える約束を、二人ともしなかった。
限界を数え、越える前に助けを求める。それも十二年前にはできなかった戦い方だった。
三回目の波で、チビの結んだ糸が切れた。
チビは屋根から落ちかけ、リリアが舞台用の投げ布で受け止める。クロがすぐ空いた左辺へ走り、ハナが自分の魔力を削って地面の支点を深くした。
「四回目、来る!」
リリアは数える役を忘れなかった。
怖くて泣いていても、役目は果たせる。
エミは短杖を持つ手を左から右へ替えた。利き手は痺れて動かない。無理に握り続ければ、次の解放術に使えなくなる。
「一回、薄くする」
「どこを?」
「私の前」
自分だけを守る厚みを削り、集会所側へ回す。
リリアは止めかけて、言葉を飲んだ。
エミは死ぬために削るのではない。全体を保つため、傷つく場所を自分で選んでいる。
「戻る合図、忘れないで」
「忘れない」
それでも、呪歌の中心まではまだ届かない。
初めて姉を、自分の力で守った。
エミが一歩踏み出す。
三匹の魔獣が、同時に立ち上がった。




