第061話 公演の前夜
「右の口角、もう少し上」
エミが鏡越しに言った。
公演前夜、姉妹は必ず互いの化粧を確認する。
この儀式は、二人だけで旅を始めた頃から続いている。
十歳のリリアは化粧の仕方も分からず、頬紅を顔の半分まで塗った。六歳のエミが濡れた布で直し、左右が同じになるまで何度も首を傾げた。
それ以来、リリアが笑顔を作り、エミが本物か確かめる。
リリアが赤い頬紅を引き、エミが舞台灯りの下で色を確かめる。衣装の留め具、靴紐、燃舞の鞘、魔獣たちの立ち位置まで順に点検する。
チビは紙吹雪の籠へ潜り、クロは客席までの退路を歩く。ハナは大きな身体で幕を支え、留め具が緩んでいないか鼻で押す。
家族全員の無事を確かめて初めて、幕を開けられる。
「これでどう?」
リリアが笑う。
エミは首を振った。
「違う」
「何が?」
「いつもの笑顔じゃない」
リリアは鏡の中の自分を見た。
形は同じだ。
けれど目の奥にいるのは観客でも妹でもなく、最後列の白髪の女だった。
リリアはもう一度作る。
目を細め、口角を上げる。観客が安心する形を、身体が覚えている。
「同じよ」
「少しだけ、遠い」
エミは姉の顔を誰より見てきた。
舞台で転びそうな時の笑い。お腹が空いている時の笑い。怖い時に妹を安心させる笑い。
今の笑顔は、誰にも触れられない場所へ逃げている。
「どこが違うの?」
「私を見てない」
エミの答えは短かった。
舞台の笑顔は多くの人へ向けるものでも、最後には目の前の誰かへ届く。今のリリアは、見えない敵へ壊れていないと証明するために笑っていた。
「白髪の人、見たの?」
「見間違い」
「お姉ちゃんに似てた?」
「照明のせいよ」
「花油の匂いも?」
リリアの指が止まる。
クロとハナが嗅いだ、母と同じ香り。
「昔の香油よ。珍しくないわ」
否定の材料を並べるほど、声が速くなった。
リリアは化粧道具を片づけた。
「大丈夫。明日の曲順を確認しましょう」
三度目の大丈夫だった。
一度目は疲労。
二度目は白髪の女。
三度目は、自分でも何が大丈夫なのか分からない。
エミは追及しない。
代わりに父の短杖「囁きの枝」を、リリアの手が届く場所へ置いた。
「これはエミの武器でしょう?」
「今夜だけ、半分」
父が二人へ残した物なら、姉だけを守ってもよい。
エミ自身は燃舞の隣へ座り、姉が眠るまで離れなかった。
夜半、村の墓守が馬車を訪ねた。
墓地で白髪の女を見たという。
女は墓標を一つずつ撫でながら、子守歌を歌っていた。
歌を聞いた墓守は眠らなかった。
女が彼へ歌ったのではなく、名の消えた古い墓へ向けていたからだという。
その墓は、十二年前の襲撃で身元の分からなかった旅芸人たちを埋葬した場所だった。
姉妹の母セレナが、幼い二人へ歌った曲だった。
リリアは題名を口にできなかった。
「星を数える子守歌」。
家族しか知らない二番の旋律まで、墓地から聞こえてくる。
墓地の方角から、誰も歌っていないはずの声が届く。
リリアは鏡の中で笑っていた。
その笑顔だけが、また少し遠くなった。
墓守は、帽子を胸へ押し当てたまま続けた。
「わしは止められなかった。怖かったんじゃない。あれが、泣いているように聞こえた」
女は墓を荒らさなかった。
名の消えた墓標の苔を払い、倒れた花を直し、歌の最後だけ何度も繰り返したという。
それでも、墓守が一歩近づくと、墓地の端にいた犬が眠り込んだ。
優しさに見える仕草と、命を沈める力が同時にある。
リリアはそこへ駆け出しそうになった。
母なら、今も墓を覚えている。
敵なら、姉妹を誘い出す餌として墓を使っている。
どちらの考えも、胸を裂く。
エミは先に扉を閉め、墓守へ水を渡した。
「今夜は一人で墓地へ戻らないでください。見た場所、朝に案内して」
墓守は頷き、村の夜警へ伝えると言った。
リリアは何も言えなかった。
走らないために、椅子の縁を握っていた。
エミは姉の頬から、作りかけの紅を拭った。
「今夜は、笑わなくていい」
リリアは返事をせず、消えた口元を鏡で見つめた。
「怖い?」
エミが尋ねる。
リリアはいつものように「平気」と答えかけた。
鏡の中で、紅を落とした自分と目が合う。
「分からない」
白髪の女が母であってほしい。
母であってほしくない。
会いたかった気持ちと、敵として現れた恐怖が同時にあり、どちらを選べば妹を不安にさせないか考えてしまう。
「エミは?」
「怖い」
妹はすぐ答えた。
「でも、知りたい」
リリアは初めて、妹が自分より先に恐怖を言葉にしたことへ気づく。
怖いと言っても、エミは崩れていない。
「私も、怖い」
声にした途端、胸の奥の圧迫が少し緩んだ。
二人は今夜の公演を中止し、墓地へもすぐ向かわないと決める。クロに周囲を探らせ、明るくなってから村人と一緒に確認する。
中止を知らせる紙には、理由を「出演者の都合」とだけ書いた。
母かもしれない敵の存在を隠すためではない。確証のない恐怖を村へ広げず、夜警には個別に危険を伝えるためだった。
紙を貼りに行ったのは、リリアではなくエミだった。
広場には、翌日の舞台を楽しみにしていた子どもが二人残っていた。エミは何度も息を吸い、逃げずに正面から頭を下げる。
「ごめんなさい。明日の公演は、今はできません」
「病気?」
「怖いことがあった。準備してからにします」
嘘はつかない。
だが、母かもしれない女の話はしない。
子どもたちは顔を見合わせ、舞台袖に置いてあった紙花を一つずつ拾った。
「じゃあ、これ、飛ばないように箱へ入れとく」
期待を裏切れば責められると思っていた。
けれど返ってきたのは、手伝いだった。
エミはその紙花を受け取り、馬車へ戻ってリリアへ見せた。
「待ってくれる人は、怒る人だけじゃない」
リリアは紙花を握り、また少しだけ泣きそうな顔になった。
エミは鐘の合図を三種類決め、リリアは避難路へ舞台用の灯りを置く。
何もしない夜ではない。
急がないと決めたからこそ、朝までにできる準備を二人で分けた。
母かもしれない相手へ急ぎたい気持ちより、生きて確かめるための準備を選んだ。
エミは化粧道具を箱へ戻す。
「笑顔の確認、明日やり直す?」
「そうね」
「本物になるまで」
リリアは今度こそ、作らずに小さく笑った。
その笑いは短かったが、鏡ではなくエミへ向いていた。
エミは何も言わず、その笑顔だけを今夜の合格にした。




