第060話 白髪の女
公演の二曲目で、リリアは観客の最後列に白髪の女を見つけた。
眠りから目覚めた村人のために開いた、小さな夜公演だった。
耳を守る布を入口で配り、クロは街道、チビは屋根、ハナは客席脇へ配置している。
エミは舞台袖から姉の呼吸を数えていた。
自分と同じ顔をしている。
輪郭だけではない。
歌の高音へ入る前に少し顎を引く癖。寒い時、右手の指だけを握る仕草。
鏡を見ているようで、鏡より古い自分を見ている。
髪の色と、灰色の瞳だけが違った。
リリアの歌が、一音だけ揺れる。
観客は気づかない。
彼女は笑顔のまま回転し、細剣の炎で夜空へ花を咲かせた。
失敗を隠すためではなく、次の音へ進むための動き。
父が教えた「笑って逃げろ」を、舞台の上で何百回も使ってきた。
今夜だけは、逃げる先にも女の視線がある。
舞台に立つ間は止まれない。
エミと魔獣たちの動き、客席の子ども、火の位置。全てを見ながら、最後列の女から目を離さない。
エミが姉の異変に気づき、三曲目を短い演目へ変える。
チビへ合図し、予定より早く紙吹雪を降らせる。
言葉を交わさなくても、姉の負担を減らす選択をしていた。
女は拍手をしなかった。
灰色の瞳で、リリアだけを見ている。
敵意も喜びもない。
ただ、失くした物の形を確かめるような目だった。
目が合った。
胸の奥に、知らないはずの温度が戻った。
幼い頃、歌い疲れて眠った時に抱かれた腕。
髪を撫でる指。
母の匂い。
記憶では、母の髪は自分と同じ赤橙だった。
目の前の白髪と結びつかない。
それでも身体は先に懐かしいと知っている。
そんなはずはない。
曲の最後で炎の花が弾ける。
リリアは最後の礼を、いつもより長くした。
顔を伏せている間に呼吸を整え、もう一度見る覚悟を作る。
リリアが礼をして顔を上げると、女は消えていた。
人の間を通った気配もない。
追いかけようとして、リリアの足が舞台板を踏み外した。
燃舞の火が乱れ、紙吹雪の端へ移る。
エミがすぐ短杖を振り、ハナが濡れ布を投げた。クロは客席の出口へ走り、チビはランプを倒れない位置へ押さえる。
火は広がらずに消えた。
観客の何人かが息を呑む。
さっきまで救いの明かりだった火が、一瞬だけ別の顔を見せた。
リリアは舞台の上で動けない。
追えば届くかもしれない。
けれど今、客席を置いて走れば、二日前に泣いた子どもへまた火の恐怖を残す。白髪の女を確かめたい自分と、舞台を終わらせる責任が胸の中でぶつかった。
エミが幕の内側から小さく言う。
「終わらせて」
命令ではない。
姉ならできると信じている声だった。
リリアは震える足で立ち直り、最後の一礼だけをやり直した。
女を追わない選択は、逃げではなかった。
今いる観客を危険へ残さないための選択だった。
公演後、エミが駆け寄る。
「手、冷たい」
エミが姉の指を握る。
炎魔法を使った直後なのに、氷のようだった。
「お姉ちゃん。途中、声が」
「少し息を外しただけ」
「嘘」
エミは小さく言った。
責めずに、手を離さない。
いつもの舞台口調で答える。
エミは最後列を見たが、女の姿を見ていなかった。
近くにいた村人が震えながら言う。
「あの女、あんたと同じ顔だった」
「髪は白かった。でも、若い頃のあんたを年上にしたみたいで」
別の若者が、出口の方を指した。
「俺も見た。足音はなかった。でも、通った場所だけ、耳鳴りがした」
眠りから戻ったばかりの少女は、母親の袖を握ったまま言う。
「怖くなかった」
大人たちが少女を見る。
「あの人、歌ってなかった。口を押さえてた」
証言は揃わない。
同じ顔、足音のない移動、耳鳴り、口を押さえた仕草。
敵だと決めれば楽になる。母だと決めても、別の意味で楽になる。
どちらも、今夜の証拠より先へ進みすぎていた。
エミは帳面へ証言を分けて書いた。
見たこと。
感じたこと。
推測したこと。
三つを混ぜない。
姉が母という言葉へ呑まれないよう、妹は紙の上に線を引いた。
二十歳のリリアより、数歳上にしか見えなかった。
母が生きていれば四十を越えている。
年齢が合わないことへ、リリアは安堵しようとする。
できなかった。
リリアは笑おうとした。
口元は形を作る。
けれど笑い声が出ない。
エミが舞台幕を閉じる。
観客の前で姉が壊れないよう、今度は妹が視線を遮った。
笑っているのに、その笑顔から音だけが消えた。
幕の内側へ入ると、リリアの膝が折れた。
エミが肩を支える。
「見た顔、描ける?」
リリアは紙と炭筆を受け取った。
輪郭を描き、目を描き、途中で手が止まる。
似せようとするほど、自分の自画像になる。
「髪を白くして」
エミが代わりに線を重ねる。
二人で描いた女の顔は、母セレナの古い肖像と並べると瓜二つだった。
ただし肖像の母は三十一歳。描いた女は二十三歳ほどに見える。
「違う人」
リリアは年齢の差へ縋る。
「お母さんなら、もっと」
四十三歳になっているはず、という言葉が続かない。
母が四十三歳になる姿を、一度も想像したことがなかった。
姉妹の記憶では、母は十二年前のまま止まっている。
エミは花びらの袋を絵の横へ置く。
クロとハナが嗅いだ花油。家族しか知らない仕草。リリアと同じ顔。
証拠は増えても、まだ名前を口にするには足りない。
「次に来たら、私も見る」
エミが言う。
「危ないわ」
「お姉ちゃん一人で見ない」
リリアは反射的に大丈夫と言いかけ、口を閉じた。
今夜の笑顔は、自分でも大丈夫ではないと知っている。
馬車の外で、観客が帰っていく。
最後列の地面には、白い女の足跡だけが残っていない。
代わりに灰色の細い糸が一本落ちていた。
エミの短杖が触れると、糸から子守歌の一音が鳴る。
一音だけでは曲にならない。
それでもリリアは続きを知っていた。幼い頃、眠れない夜に母が必ず次へ繋いだ音だ。
リリアが無意識に二音目を口ずさむと、灰色の糸が淡く震えた。遠く離れた持ち主へ届いたように、馬車の外で風向きが変わる。
エミは糸を証拠袋へ戻した。
「呼べるかもしれない。でも、呼ぶ前に、帰してあげる方法を探そう」
会う方法より先に、会った後を考える。
リリアは肖像の母と白髪の女を見比べ、初めて小さく頷いた。
母セレナが歌った曲と、同じ音だった。
その夜、リリアは肖像を箱へ戻さなかった。
証拠袋と並べて、眠るまで見える場所に置いた。
逃げるためではない。
次に同じ顔を見た時、母の面影だけで判断しないために。




