第059話 魔王軍の影
次の公演地では、舞台だけが焼かれていた。
客席の椅子は整然と並び、食べかけのパンや編みかけの籠がそのまま落ちている。
争った跡がない。
住民は逃げる間もなく、歌を聞いた姿勢で眠らされた。
客席には村人が座ったまま残っている。
目を閉じ、穏やかな顔で眠っていた。
呼吸は深く、身体に傷はない。
けれど夢を見ている表情でもなかった。
生きるための力だけが、静かに底へ沈められている。
リリアが一人ずつ脈を確かめる。
「生きてる」
だが揺すっても、名前を呼んでも起きない。
リリアは舞台用の高い声ではなく、一人ずつ家族の名を聞き、耳元で呼んだ。
指が動く者もいる。
完全に届かないわけではない。
エミはチビを屋根へ、クロを村の外周へ走らせる。ハナは眠る人々を広場の日陰へ運んだ。
チビは焼けた舞台袖から、黒い音叉を見つける。
呪歌を広場全体へ増幅する魔王軍の術具だった。
クロは街道に一人分の足跡しかないと伝える。
軍隊ではない。
一人の歌い手が、この村を眠らせた。
舞台の裏から、生き残った旅芸人が見つかった。
男は自分の耳を布と蝋で塞いだため、完全には眠らずに済んだ。仲間を起こそうとして魔王軍兵に斬られたという。
「魔王軍は、一座を狙ってる」
男は腕に傷を負っていた。
希望を広げ、人々を集める旅芸人は、支配の邪魔になる。魔王軍は各地の公演を潰し、歌い手を連れ去っているという。
「人が笑えば、明日も集まる。集まれば、食糧も情報も分け合う。あいつらは、それを嫌う」
孤立した村は奪いやすい。
舞台は娯楽であると同時に、人を繋ぐ場所だった。
「なら、今夜ここで公演します」
リリアは即答した。
「危険だ」
「怖がって舞台を閉じたら、あちらの思いどおりでしょう?」
「眠っている人の前で?」
「聞こえているかもしれない」
リリアは先ほど動いた指を思い出す。
声が届く可能性が一つでもあるなら、舞台を開く。
笑顔が、いつもより強い。
エミには分かった。
強い笑顔は、姉が強い時ではない。崩れそうなものを押さえている時だ。
けれど、旅芸人の男は首を横へ振った。
「あんたの歌で、また眠りが深くなるかもしれない」
その言葉に、リリアは初めて黙った。
自分の歌が人を救うとは限らない。呪歌と同じ「音」である以上、傷ついた耳には区別がつかないかもしれない。
試しに、リリアは眠る老婆のそばで短い旋律を歌った。
老婆の眉が苦しげに寄る。
隣にいた息子が、反射的に母の耳を塞いだ。
「やめてくれ」
その声は責めていない。
だからこそ、リリアの胸へ深く刺さった。
笑顔で押し切ればいい場面ではなかった。
エミが姉の袖を引く。
「お姉ちゃんの歌じゃなくて、この村の歌から」
「でも、知らないわ」
「教えてもらう」
エミは眠っていない村人へ向き直った。
人前で声を張るのは苦手だ。それでも、今は姉の代わりに聞く役が必要だった。
「この人が起きていた時、よく歌っていた歌、ありますか」
息子は少し考え、掠れた声で古い畑歌を口ずさんだ。
リリアはそれを一度で覚えようとして失敗した。
二度目は音を外した。
三度目で、ようやく息子が頷く。
救う歌は、姉が持ち込むものではなく、村から借りるものになった。
「公演するなら、耳を守る布を配る。クロとチビが外を見る。ハナは眠った人のそば」
エミは反対の代わりに、安全策を並べた。
姉の選択を止められなくても、一人では背負わせない。
リリアは一瞬驚き、頷いた。
夕方、目を覚ました村人が証言した。
リリアたちの歌を聞き続け、眠りの底から戻った最初の一人だった。
旅芸人の歌が呪いを完全に解いたわけではない。それでも、自分で目を開けるきっかけになった。
「白髪の女がいた」
焼ける舞台の向こうで、一人だけ炎に背を向けず立っていた。
女は歌っていた。
その歌を聞いた者から、眠りへ落ちた。
「あんたたちの歌が始まるまで、ずっと見ていたよ」
白髪の女は、リリアが父の旋律に似た曲を歌った時だけ、手を胸元へ置いた。
攻撃を止めることも、近づくこともしなかった。
「私たちを?」
「赤い髪の、姉の方を」
リリアは笑顔を崩さない。
胸の奥だけが、冷えた。
見知らぬ敵に狙われる恐怖ではない。
知っている誰かに見つけられたような恐怖だった。
「白髪の女が、舞台の向こうからあなたを見ていた」
夜の公演は、焼け残った石段を舞台にして始まった。
眠る村人を客席の前へ運び、家族がその手を握る。起きている者は耳を守る布をつけ、呪歌の音叉が再び鳴れば合図できるよう鐘を持った。
リリアは最初、明るい曲を選ぼうとした。
途中でやめる。
無理に笑わせるより、眠りの底にいる人が覚えている歌を聞くことにした。
村人たちは畑仕事の歌、子守歌、収穫祭の輪唱を一つずつ教える。
リリアがそれを歌い、エミが低い声で重ねた。
一曲目で、老人の指が動く。
二曲目で、母親が子どもの名を呼ぶ。
三曲目で、眠っていた少女が泣きながら目を開けた。
奇跡のように全員が起きたわけではない。
それでも、呪歌が奪った「戻りたい理由」を、村自身の歌が少しずつ取り返している。
リリアは拍手を求めなかった。
曲が終わるたび、目覚めた者の名前をエミの帳面へ記す。
夜半、クロが街道の端で白い花びらを見つけた。
花油の匂いが残っている。
白髪の女は公演のすぐ近くまで戻り、最後まで聞いていた。
攻撃できたのにしなかった。
しかも花びらの縁には、強く握り潰した跡がある。歌へ近づこうとした意思と、近づくなという命令が、同じ手の中で争ったように見えた。
それが罠なのか、歌を聞きたかったのかは分からない。
リリアは花びらを拾わず、エミへ頼んで布袋へ収めてもらった。
触れれば、知っている温度が戻りそうで怖かった。
それでも、花びらを捨ててとは言わなかった。
朝までに目覚めた者は、村の半分にも満たなかった。
リリアは悔しさを飲み込み、起きた者へ歌詞を書き渡した。自分たちが去った後も、家族が耳元で続けられるようにするためだ。
「明日も歌えば、全員起きる?」
子どもに聞かれ、リリアはすぐ頷けなかった。
希望を約束にしてしまえば、叶わなかった時に村をもう一度傷つける。
「分からない。でも、今日動いた指は、明日もっと動くかもしれない」
エミが目覚めた人数と、まだ眠る人数を帳面へ記した。
救えた数だけではなく、救えていない数も持っていく。
魔王軍を追う理由が、また一つ具体的になった。




